ジジイ、突撃死

229 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:19:17 ID:ok723CeU0
9.ジジイ、突撃死 20140926KB

※ ※ ※

……畢竟、我らは規範と理性に縛られている限り、真に人を想うことなど出来ないのかも知れない。
だが、決してそれらから解き放たれようとしないことだ。
人を想うことは、人に尽くすことと同義では無いのだから……。

※ ※ ※

230 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:22:25 ID:ok723CeU0
……此処はいったい何処であろう。居宅の中であることは確かだ。
何しろ、今の私に独りで外出する気力体力などあるわけが無いのだから。
 
然し、だからといって今、私のいる場所が居宅のどこに位置しているのか、
一階なのか二階なのか、或いは庭先に転げ落ちてしまっているのか、さっぱり分からぬ。

無論、この家を購ったのは紛れもなくこの私だ。
確か四十年と幾年か昔あたりに、当時新妻だった婆さんに見栄を張るため、無理をしてローンを組んだのだった。
それから数度改築をし、何度かの天災を経ながらも、この家は今日まで立派に耐えている。

そんな我が居宅は私自身の矜持そのものでさえあった。
仕事から帰り着くたび、また退職して近所を買い物がてら散歩して帰ってくるとき、
ここへ頑然と構えている家の眺めに、何だか誇らしくなることもたびたびであった。

当然我が息子もこの家で育ち、孫さえもよく遊びにやってきてくれていた。
 
そんな人生の大部分を占める我が家について、今の私はもはや、その間取りすらも判然としないのだ……。

231 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:25:29 ID:ok723CeU0
視界はもう、とうの昔からボヤボヤとしている。
間近なところを多数の羽虫が飛び交っているような具合だ。

聴覚は水底不覚に沈みこんでしまっているように音が籠っていて、
近所から聞こえてくる生活の音がわけのわからぬ言語のようにさえ聞こえてくる。

唯一、触覚だけが背中の方から伝わってくる淋しい冷たさを全身に伝えている。
だが、それでさえフローリングの冷たさなのか、
はたまた私の身体が新しい不調を訴えているのか、見当もつかない。
 
だがどうせ……いつものことだろう。

私はまた、どこから湧き上がったかも知れぬ力で己のベッドから転がり落ち、
意思なき意思によって行動を決意し、誰の視線を恥じらうことも無く、
死に損なった百足よりも無様にのたうち、もがき、這いずり回っているのだろう。

いや実際、今の私が死に損なっているのは間違いないし、あまつさえ百足なぞよりも遥かに有害でさえあるのだ。
そして何よりも絶望的なのは、そんな自分を悔いたり、羞恥を覚えたり、
反省するなどという気持ちが僅かでさえも首をもたげぬことなのだ。

/ ,' 3「……!」
 
私は何らかの声をあげた……それは、
ウウ、とかアア、とか、言葉では形容できぬ耳障りな呻き声であったに違いない。

それは本心からの叫びではなく、どこからともなく現れる、
私の感覚器を支配した何者かによる意図のない怒声なのだった。
こんな光景をいつだったかテレビのドキュメンタリー番組で視たような憶えがある……いや、或いは幻想であろうか。
 
……どっちだっていい。どうせ正確な過去など思い出せるわけもないし、
誰かが私の言葉を擁護してくれるわけでもないのだ。

この期に及んだ私に最早一人として信頼なぞ寄せてくれるわけもなかろうし、
あまつさえ我が息子でさえ乳飲み子のように私を弄ぶだけなのだ。
 
……否、そうか。そう言えば、息子は昨日か数日か前に、私に愛想をつかせて出て行ったのだった……。

232 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:28:21 ID:ok723CeU0
現在の私はどのような姿をしているのだろう。

しっかりと認識していた頃から既に禿げかけていたこの頭には僅かな白髪が乱雑に散らばっていて、
弛みきった皮膚には無数の皺が刻まれている筈だ。

そして下半身……嗚呼、そのことなど寸分たりとも思い出したくない。
考えてみれば息子に下の世話を任せるようになってから、私は余計短気になり、癇癪を爆ぜるようになったのだ。
私の感覚がマトモであったなら、きっと堪え難い汚物の臭いが鼻腔を貫いていることだろう。

然しその不愉快さを私は微塵と知覚せぬ。
もしか、これは真実、天国のような心持ちであるのかも知れぬ。
一切の事物から解放され、脳味噌の底の底だけが微かに労働しているこの状態こそ……。

233 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:31:26 ID:ok723CeU0
(´・_ゝ・`)『すまないけれど、僕にだって仕事や家庭や、人生というものがあるんだ。
      人間なら誰しも体力と精神力に限界値というものがあってね……。
      どうも、今の僕や、僕の奥さんには、父さんの面倒を見るだけの容量が足りてないみたいなんだ。

      たぶん……いや、キット父さんにはなんにも分かっていないんだろうけどね、
      だからこれ以上敢えて何も言わないよ。もし、父さんが僕の言葉を正確に聞き取っているなら、
      僕はきっと思いつくだけ罵詈雑言を浴びせつけるだろうね。

      けれど、今の父さんに何を言っても無駄だ。
      それがわかってしまう、これを虚無感と言うのかもしれないね。

      小学生の頃、頭ごなしに怒鳴りつけられていた時とおんなじような気分だよ。
      どちらが正しいかなんて関係なくってね。むしろ、今の僕は、どうしようもない親不孝者なんだろう。
      でも、それでもなお、この道を選ぶしかない僕のことを、どうか許しておくれよ……』

234 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:34:23 ID:ok723CeU0
息子が残した別れの言葉が脳裏を反復する。
あの時、表面上の私は何と返事をしたのだろう。どうせまた、宇宙語で不快感をぶつけたに違いない……。

嗚呼、然し決して息子を責めてはならぬのだ。
ありふれた言葉で表すならば、物事には優先順位というものが付き物なのだから。
息子の嫁や、孫のことを差し置いて、私の世話をする義務など何処にあろう。

彼にとって肝要なのは彼自身を大黒柱とする唯一無二の家庭なのであり、
そしてそれを出来る限り存続させてゆくための人生なのだ。
出来ることなら私のような、重度の痴呆老人のために時間を割くべきではない。
 
だが、そんな主張を、私は思い通りに表現できぬままであった。
徐々に記憶力や、その他諸々の所謂『自我』が失われてゆく間、
私は幾度も幾度も彼らとの、誠実な意思疎通を試みた。

然し一切は無意味であった。無論、それが認知症の病理なのだから当然の話だ。
やがては全ての感覚器が麻痺し脳髄が退行してゆき、遂には試みることさえ不可能になってしまっていた。

私は、誰のものとも分からぬ意識を誰彼構わずにぶちまけて、そのくせ何の責任も取らなくなってしまっていた。
昔馴染みの友人知人も認知出来なくなってゆき、終いには息子のことさえ分からなかった。
 
……だが、この脳の奥底で、それらの記憶と、紐付けされた意識は確かに存在している。
寝たきりになり、己の生理現象にさえ対応できなくなってもなお、この脳味噌は思考をし、動作し続けている。

外部に向けて発信出来ぬが故、誰にも知覚されることはなかったが、
内部では今でもなお私は私の儘であり、私として生き続けている。
 
その事実は私にとっては僥倖であったが、その他殆どの人々を不幸に陥れてしまった。
私は息子の精神をいったいどれ程に蝕んでしまったろう。息子の嫁をいったいどれ程苛んでしまったろう。
外側の出来事が分からないから、私は彼らの真意を汲み取ることはおろか、予想することも出来ぬままだ。

人生の終端、アルツハイマーの果ての果てにこんな苦労が待ち受けていると、誰が分かっていただろう。
どこかの老人ホームに収容されている死んだ眼の老人に、
判然とした思考能力が備えられていると、誰が予測できただろう。

235 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:37:23 ID:ok723CeU0
……そう、明らかなことは二つだけだ。

一つは、私が未だ殺されてもいなければ、孤独死にも至っていないということ。
そして二つ目は、私の身体がどこかのホスピスに送り込まれることなく、
自宅の何処かに居座ったきりであるということ……。
 
一つ目については火を見るよりも明らかだ。私は熱心な宗教家ではないが、
天国や地獄の概念ぐらいは持ち合わせている。此処は、私の知識にある限りの死後の世界ではない。
かといって私の精神は暗黒に葬り去られたわけでもなく、未だ現世を漂い続けている。

それが証拠に、私は息子の離別の言葉をしっかりと憶えているのだ……
それがどれぐらい前のことだったかは、よく分からないが……。
 
二つ目について……正直、何故私自身が確信しているのか分からない。
皮膚感覚さえ明らかでない今、私が私の居場所を知ることなどどだい無理な話だ。

しかし……何らかの、安っぽいノスタルジーだろうか……
私は今なお、見知った街の見知った我が家の中で独り死を待ち受けているという認識を捨てられずにいる。
ただ、私の頑迷な意識からして、息子らが何処かの施設へ連れていくのを容易に許容するとは思えない。

236 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:40:28 ID:ok723CeU0
そうだ。昔から難儀な性格であった。
代々受け継がれてきた遺伝子のためでもあろう、
男とはこう在らねばならぬという教育や社会環境の賜物でもあるだろう。

とにかく私は如何にも旧世代の人間らしい生き方をしてきたし、
周りにもそういう振る舞いをしていた。ややこしく考えたくはないものだが、
そうしなければ人生における地位や身分を確立させられなかった場面もあるだろう。

時として理論を感情で押し潰し、商売のために客を騙したりもした。
そうして稼いだ金と嫁に貰った婆さんだ。誰だって多かれ少なかれ私と同じぐらい悪いことをしてきただろうし、
また同じぐらい悪い目に遭ってきたのだろう。

だから私は、この末期が決して刑罰であるとは思っていない。
これは遍く人々全てに訪れるかも知れぬ一種の不運であり、最後の籤引きであるというわけだ。
 
私は己の人生の一切に後悔を思わない。
この期に及んでの後悔など、所詮は罪責の丸投げに過ぎないのだから。
 
故に、こうやって息子に愛想をつかされ、居宅の何処かで、
たった独りになった野垂れ死ぬことに関して、私は己の生き様からして、
更に言えばこの世に生まれたその瞬間から決められていた運命であるとさえも感じている。

遡ることの出来ぬ人生に第二の道など存在し得ない。
私の歩んだ揺り籠から墓場までの道程は、予め結論づけられていたものなのだ。
今更ああすれば良かったと、こうすれば良かったと、省みて虚妄を抱くことにいったい如何程の意味があろう。

いずれ、どうしようもない理屈の解答へ導かれただけなのだから。

237 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:43:24 ID:ok723CeU0
(*゚ー゚)『ねえお爺さん、今度補聴器を買おうと思うのだけれど、どうかしら。
     ……いえ、ねえ、もう最近はめっきり、耳も悪くなってきたものだから、
     よくお爺さんの声が聞き取れなかったり、ドラマの音を大きくしすぎて怒らせてしまうでしょう。

     だからと思って、ほら……昨日広告が入っていたんですよ。
     このカタログなんですけれどね……何でも、自分の耳の形に合わせて、調整してくださるんですって。
     
     色々と、専門の方がお手伝いしてくれるみたいだし。
     費用は、二十万円ぐらいするから、高価なお買い物になってしまうんだけれど……どうかしら。

     え……? 
     いやねえ、まだまだ生きていきますよ……そのために、ほら、お医者さんにもかかっていますし、
     色んな健康食品を試してみたりもしているんですからね。

     ……ええ、だってお爺さんの方が三つも歳が上じゃないですか。
     だからね、少なくとも私は、お爺さんよりも長生きしますよ……。
     はい、はい。丈夫ですよ。

     え? 
     ……はい、すいませんねえ。ええ、わかりました、早速電話してみます。
     ……ねえ、愉しみですよ、ね……』

238 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:46:47 ID:ok723CeU0
私の頭を漂流する記憶に、最早整然とした順序など存在していない。
全ての場面が、パノラマ状の壁に貼り出されているような具合だ。
だから、時々ひょいと思考の中へ飛び込んでくる言葉や光景が、いったい何時のものであったか、判然としない。

件の婆さんの言葉とて、もうどれぐらい前のことであったか。
彼女はどこまでも健康的な人間で、此れと言った大病を患うこともなかった。
けれども耳だけは老いて早々に衰え始め、私を苛立たせることも度々であった。

何しろ私の声質は低くくぐもっていたため、それが理由で会社員の頃、上司によく叱責されたのだ。
その当時のトラウマがどうしても蘇ってならなかったのだ。
 
婆さんもそのことは重々承知していた。
然し、どうも日常的に機械を自身の身体に装着することには並々ならぬ抵抗感があったらしい。
無論、逆の立場となれば私だって拒絶していただろう。

その婆さんが自ら私に、補聴器の購入を言い出したのだから、彼女の中で余程の決心があったのは確かだ。
二十万というのは結構な大金であったが、私はすぐさま承知した筈だ。
 
それから一ヶ月程してオーダーメイドの補聴器が届けられた時、
耳につけた婆さんは、それはもう大層な喜びようであった。口には出さずとも、
矢張り普段から随分と鬱憤を溜めていたらしく、それが一遍に吹き飛んでいったような具合だった。

それを見た私は……表面上は、年甲斐もなくはしゃぐ婆さんを鼻で笑っていたようにも思う。
けれども本心では、そんな婆さんが微笑ましくて仕方がなかった。そして、どこかしら安堵のような感情もあった。

婆さんが耳を悪くしたのは、仕方のないことではある。
だがそれは婆さんの、引いては我ら夫婦の老いをまざまざと見せつけられるものであった。

機械に介助されているとはいえ、彼女の聴力が昔に戻ったことは、
何よりも、我々がこれから先もまだ、やっていけるという重大な展望を示唆してくれるものだったのだ。

昔ながらの精神論だけで言うのではない。
そうした日々の所作の一つ一つが、我らの生き延びてゆくことに肝要であるのだと、
改めて気付かされた瞬間であった。
 
そして皮肉にも、その体験は婆さんの死によって訪れた絶望の深さを更に拡げる結果となってしまったのだ……。

239 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:49:20 ID:ok723CeU0
('、`*川『ねえあなた、本当に大丈夫かしら……私、怖いわ』

(´・_ゝ・`)『そりゃあ、僕だって怖いさ……けれど、他にどうすることも出来ないじゃないか。
      もう、一刻も我慢できないんだろう?』

('、`*川『ええ……。
     世間からは、不義理な嫁だって嘲られるのかもしれないけれど、
     私なんか、人より心根が弱いから、これ以上はたまらないの……』

(´・_ゝ・`)『うん、うん。その気持ちは、僕にだって当然、理解できるさ』

('、`*川『このままだったら、私、お義父さんを殺してしまう』

(´・_ゝ・`)『大丈夫だよ。僕たちが此処を出て行ったって、
      週に一度はデイケアーの方が寄ってくれることになってるんだから。
      そこまで惨たらしいことにはならないんじゃないかな……』

('、`*川『でもね、私たち、何らかの罪に問われるんじゃないかしら……』

(´・_ゝ・`)『さあ、分からないな。
      けれどね、これ以上憔悴していく君を僕は見たくないんだ。君だって、そうなんだろう?』

('、`*川『ええ。殺してしまう……殺してしまうわ、あなた……』

(´・_ゝ・`)『わかっている、わかっているよ。だからもう、何も言わなくていい』

240 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:52:25 ID:ok723CeU0
息子は鉄鋼会社に勤めながら妻と、二人の息子を養っている。今もそうしている筈だ。

その生活は決して楽なものではない。
まだ私が『正常』であった頃、彼が世間の景気や給料の額に愚痴を零しているのを聞いたことも数度ではなかった。

それに対して私は気丈に、時には喝破するようにして彼を説諭したものだった。
それぐらいの苦労は誰だって抱えている。無論、嘗ての私も多くの辛酸を舐めてきた。
辛抱に辛抱を重ねて、ようやっと見えてくる道もあるのだ、云々。

息子は黙り込んで、特段表情を変化させることもなく聴いていた。
ただただ聴き入っていたのか、それとも疲弊のあまり言葉が素通りしてしまっていたのか、
今となっては知る由もない。
 
……仮に、私が彼を援助していればどうなっただろう。

と言って、私の資産に然程の余裕があったというわけではない。
何とか定年まで働き続け、食い扶持に困るような事態には陥らなかったものの、
老後の余暇を満喫するほどには貯蓄できなかったのが現実だ。

そのせいで義理の娘が私の面倒を忙しなく看なければならなかった。
介護施設の入所待ちは途方もないと云うし、デイケアーにしても週に一度、依頼するのが精一杯だったのだろう。
 
だが、もしもあの当時、購う自宅をもう少し狭いものにしていれば。
もう少し駅から遠い場所にしておけば。もう少し庭の造作に拘りを持たなければ……。

もしかしたら、人生のあらゆる部分を切り詰めていけば、
私は息子夫婦の精神を、斯様なまでに追いつめずに済んでいたのかも知れない。

私は適切な病院で適切な終末医療を受け、安穏とした最期を迎えていたのかもしれない。
そうすれば我が子の看病は面会ということになり、精神的負担も軽減できたろう。
或いはまた、我が子の苦境に、資金という形で多少なりとも助けの手を伸ばせたかも知れぬのだ。

241 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:55:26 ID:ok723CeU0
然し、家を建てた当時の私は、居宅に最大限の身銭を切ることが人間の矜持であると確信していたし、
それが男としてのステータス、アピールポイントとなると疑わなかった。

現実、完成した我が家を一目見た妻は驚きを通り越してやや萎縮している風でもあった。
あの時に覚えた充足感は、他で味わえるものではない。
 
それからの生活において、私はローンに苛まれながらも、
決して惨めったらしさが露出せぬよう最大限の努力を払ってきた。

宵越しの銭は持たない、とまでは言えないが服装にせよ、飲み食いにせよ、
他人との見えない競争意識の中で負けないために大いなる無駄遣いを繰り返したのだった。

それは、時として家計を圧迫していたに違いない。
けれども婆さんは金銭的な不平不満を一度たりとも漏らしたことがなかった。
年老いて、彼方へ逝ってしまうまで一度たりとも。

それが私の、紛うことなき生き様であった。後悔は自己欺瞞である。
小川のせせらぎに転がる石も、いずれ定められし道を通うのだ。

一本、筋の通った私の人生が、その形を変えることなど有り得ない。
また、有り得たとしても我らの目に見える筈もないのだ。

242 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 21:58:18 ID:ok723CeU0
確かに、私は身の丈に合わぬ装飾品に手を出していたのかもしれない。
しかしそのおかげで、客との商談が円滑に進んだことだって少なくはなかろう。
馬鹿らしく古風な礼儀に倣っていただけとはいえ、相手に好印象を抱かせる要因になっていたと信じたい。

そうやって積み重ねた経験や体験が、己の惨めったらしさ一つで脆くも瓦解してしまっていたかもしれない。
あまつさえ、何処かで道を踏み外し、一家で路頭を迷うことになったやも知れぬのだ。

そうしてみれば、我が人生の何と『マシ』であったことか。
外見を整え、見栄を張り、心身ともに表面上を取り繕って生き抜いたこの人生は、何と人間らしくあっただろうか。
 
……何と言っても、あれ程頑固者だった私が不景気に喘ぐ息子に金を手渡すなど、如何にも滑稽ではないか。
そんな好々爺然としていられるような人格であったなら、
きっとどこかで野垂れ死んでしまっていたに違いない……。

もっとも、野垂れるという意味においては、現状もさして変わりはしないが。

243 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:01:15 ID:ok723CeU0
(*゚ー゚)『ねえ、お爺さん。お爺さんの下着がどこにしまっているか、知ってます……? 
     昔に、集めていた腕時計は……風邪薬……ああ、はい、はい。全部ご存知なんですね。

     ええ、何だか少し心配になってしまって……よかった。
     私はほんの少しの間だけ入院してしまうことになってしまいましたけど、
     色々なことが、分からなかったら困りますからね……。

      ええ、そうですね、お爺さんのおうちですものね。
      余計なお世話でした……はい……え、珈琲……? 

      それでしたら、食器棚の右側の引き出しに……。
      いえいえ、淹れ方だなんて、そんな大層なものではありませんよ。
      あれは、インスタントのものですから……。

      はい、何ですか……私の、淹れたものを? 

      はい、はい、分かりましたとも。
      では、お爺さんの朝の珈琲のために、なるべく早く帰ってきますからね……。
      ええ、大丈夫、大丈夫ですとも、お爺さん』

244 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:04:38 ID:ok723CeU0
身体の自由が利かなくなって……現実を認識することさえ喪われた私は……
ただただ空虚な時間にものを考えるばかりだ。

こうやって、星空のように鏤められている記憶を眺めながら……それぞれを、飽きることなく咀嚼しながら……。
まったく、記憶に映るのは死人の影ばかりだ。婆さんも、知人友人も、ドラマで活躍していた大俳優でさえ……。
一抹の寂しさを覚えるとともに、自分自身の末期というものがより確かな形となって去来する……。
 
健康体である筈だった婆さんが、殆ど世話にならなかった病院に入院して、
そのまま他界してしまったのはあまりにも唐突な出来事であった。

確か、当初は軽い検査入院のようなものだった筈だ。
それが瞬く間に……と言って、仔細な期間を憶えているわけでもないが……
彼女は、痴呆症を患う暇もなく旅立ってしまった。

その辺りの詳しい記憶についてはもう両手で足りぬほど模索したのだが、まったく見当たらない。
どうやら、その頃に私は憶えることを放棄してしまったらしい。
然し乍ら、婆さんが死んでしまったという事実だけは、一番の巨星となって輝いているのだった。
 
婆さんの死は、我ら夫婦の死と同義であった。
おそらく私はこの頃から徐々に精神の均衡を喪失してゆき、現在にまで至ってしまったというわけだ。

何がそこまで私を現実から遠ざけてしまったのかは分からない。
けれども、私の人生に婆さんという存在が必要不可欠だったのは最早自明なのだ。
居丈高に振る舞っていた私の人間性は、婆さんを喪うことで易々と折れて廃れてしまったのだった。
 
時間も空間もなく物事ばかりを考えていると……妙な表現だが、思考回路がやや柔軟になっていくような気がする。
怒濤の如く押し寄せてくる現実を受け止める必要も、満身創痍の肉体に気を病む必要もなくなった今、
私はただ只管に過去を顧みて反芻するばかりだ。

思えば我が人生において、
時間の流れを差し置いてまで立ち止まって考える機会など訪れてはいなかったのではないだろうか。

245 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:07:16 ID:ok723CeU0
茫洋たる心象風景。何かのテレビ番組で視た憶えがある。
いくら父親が痴呆に罹って横暴を繰り返しても、その死を放置してしまえば保護責任者……
息子に、刑事的な責任が発生する可能性があるかも知れないと。

詳しいことはよく分からない。我らのような市井の人間に、
その詳細を知る者がいったいどれほど存在するというのだろう。
我らはただその情報の断片を拾っては、常に最悪の事態を考えて怯え続けねばならぬのだ。

だから息子も、義理の娘も、終いには殺意さえ抱いてすら私の世話を続けていたのだ。
彼らにも世間体があるし、家庭が存在する。

現実のことなどもう何にも分からなくなってしまった父親のせいで、
彼らの先行きが大きく変貌してしまうやも知れぬのだ。
 
……そして、彼らはその未来を放棄してまで私を放置することを決断した。
それが、フワフワとした矜持や衆目やストレスによって弾き出された最終的な結末だったのだ。
 
それを哀しいと言わずして何とする。けれども、誰かを責められるものではないのだ。

246 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:11:21 ID:ok723CeU0
嘗て、私の父親が亡くなった時のことを思い出す。
父は若き頃より肺を患っていたため、勤め人でありながらも病床に臥せっていることが多かった。
無論、それでも子どもを厳しく躾けることには違いなかったが。
 
そんな父は退職後、間もなくして持病を悪化させ、亡くなった。父もまた、認知症に罹る暇などなかったのだ。
 
それに比して、母の方は割合に長生きをしていた。
晩年にはやや痴呆じみた症状に冒されていたような憶えもある。
けれども私には頼れる兄と姉がいたし、何よりもまず、家族自体の規模が大きかった。

母は様々な親族に取って代わって看取られて、
そして終わりには多くの家族に見守られながら心穏やかに彼方へ逝った。
それは間違いなく、人類史上で見ても上から数えた方が早い幸福な最期であったろう。
 
私には息子が一人しかいない。
兄も姉も……生前には既に縁遠くなってしまっていたのだが……既に亡くなってしまっている。
今更誰彼を頼りにする権利もなかろうが、頼ろうにも身近な者がいるわけでもない。

そう考えてみれば、私はもう少し将来を見据えた生き方、やり方をするべきだったのかもしれない。
然し、我が人生は常にその時点での指針を慮ることで精一杯だった。
いったいどうして、終の生活にまで頭を巡らせることが出来たろう。
 
そうだ、今だって脳裏を行き交う逡巡は、所詮心身の退行によって生じた偶発的な思いに過ぎぬ。
生きている間に……『正常』として生きている間に、その思いを形にする術など見当もつかない。
そしてそれは、人間である限り詮方の無い懊悩なのであろう。

247 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:14:37 ID:ok723CeU0
結局我らはその場凌ぎの方法で食いつなぐより他に道はないわけであり、
それらを積み重ねた具合によって出来上がった結論が人生の末期あたりに押し寄せてくるという算段なのだ。

我らの死に様は生き様を鏡映しにしたものに過ぎない。
その善し悪しは度外視してでも、我らはその幕引きを許容せねばならぬだ。
 
私は見栄っ張りの人生を送ってきた。

婆さんには大層な迷惑をかけ、時には取り引き相手となった顔形さえ定かでない人々を陥れることもあった。
逆も然りだ。旧知の友人とは再会を果たしたり、喧嘩別れをしてしまう場合もあった。
努力は実ったり、実らなかったりもした。幸運と不運も、足し合わせればおおよそ零には違いない。

それら一切合切の人生の要素が混濁し、雑然とした塊となって我が元へ訪れたという具合だ。
何も不思議なことはない。何を気迷うことでもない。
幸福か不幸か以前に、眼前に広がるのは私が過去に働いた所業の景色なのである。

何せ平均寿命前後まで生き延びたジジイなのだ。
青年期に抱くような一時の儚さに左右されるものであってなるものか。

248 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:17:17 ID:ok723CeU0
この期に及んで、私にはもう現世に対して何の恨み辛みも遺っていない。
肉体的な苦痛からは解放され、遅まきながら精神的な苦痛から私以外の人間を解放し、また解放された。

方法に難あれど、それ以外に生きる筋はなかったのだ。これでよかった。
せめて、最期にはそう声を張り上げねばなるまい。
後は最早、我が精神も肉体も、ただあの世に向かって全力で進むのみだ。
 
願わくは、婆さんと同じ場所に連れて行っていただきたい。婆さん……否、しぃよ、しぃ。
何が婆さんなどであるものか。歳を重ねど周りが変われど、私にとってお前はいつだってしぃであった。
それをそう呼ばせなかったのは世間の眼差しであり、私自身の羞恥心に他ならなかった。

それら一切を脱ぎ捨てた今、ようやく私は、決して届きはせぬ声でしぃよ、しぃと叫ぶことができるのだ。
 
嗚呼、しぃよ。最も身近だったお前にさえ、私はどうしようもない頑迷な堅物に映っていただろう。
碌に笑うこともなく、怒る時ばかり饒舌になり、決して愉快ではない気苦労を掛けさせてしまっていたに違いない。

けれどもお前は最期の最期まで付いてきてくれていた。それ以上に何を望もうか。それこそが至福であったのだ。
私が今、どうすることも出来ない廃人になってなお心安らかでいられるのは、
しぃ、お前のおかげであるとしか思いつかない。

249 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:20:15 ID:ok723CeU0
(*゚ー゚)『ねえ、あなた』

/ ,' 3『ん……』

(*゚ー゚)『私たち、どちらが先に死んでしまうかしらね』

/ ,' 3『……何を突然、縁起でもないことを』

(*゚ー゚)『男性より女性のほうが長生きするって言いますね。
     でしたら私の方が……ああ、でもそれって、とても寂しいことですよ』

/ ,' 3『……』

(*゚ー゚)『イッソのこと、二人で一遍に死んでしまったら幸せかも知れないわ』

250 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:24:40 ID:ok723CeU0
要らぬことを考えるなと叱った私の側で、お前は緩やかな笑いを笑っていた。
あれは何時頃のことであったろうか……まだ両方が若かった時分だった筈だ。

あれは……思えば、お前にとって最大限の愛情表現だったのやも知れぬ。
互いに奥手だったことだし、むしろあの頃の我らはそれが常套であると信じて止まなかった。
そういう二人だったからこそ気も合い、会話に乏しくともいつまでもやってこれたのだろう。
 
お前が最期に私へ遺したのは、弱々しい『いってらっしゃいね、あなた……』というものだったな。
考えてみればおかしな具合だ。逝ってしまったのはお前の方だったのに。

けれどもあの時あの瞬間、お前は間違いなく、私が未だ働いていた頃の習慣を想起していたのだろうな。
そう呟いた表情は、当時私を見送っていた時の顔によく似ていたようにさえ感ぜられる……。
あの瞬間、お前がある種の喜びを感じて私にその言葉を託してくれていたのであれば、それだけでもう十分だ。
 
しぃよ、お前には生きている間に言いたいことの半分も伝えられはしなかった。
きっとお前だってそうだったのだろう。そういう生き様だったのだ。

想ったことを全て吐き出すような人間性ではなかったな。
長年連れ添った夫婦ではあったが、私はお前のことをいったい幾らほど理解出来ていたのだろう。
もしもそっちで逢うことがあれば、是非とも教えてほしいものだ。

252 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/06(月) 22:27:17 ID:ok723CeU0
我ら人間というものは実に厄介に出来ているな。
生きゆくためには規範や理性に従わねばならず、そのために曝け出す言葉も選り抜かなければならない。
そのせいで伝えられなかった言葉が、どうしようもない肉体になってから初めて溢れ出してしまうのだ。

こうして独りっきりで惨めに横たわってようやくお前に、そして自分自身に本音を吐けるのだ。
そうでもしなければきっと我らは、何一つ馴染めずに終わってしまっていただろう。

生活と言うのは実に苦心惨憺たるものだ。
その隣に常に居続けてくれたのが、お前であったということに私は本当に感謝しているんだよ。
 
しぃよ。私はもう、後はそちらへ行くだけだ。
此れまでの人生のように右往左往と迷うことなく、ただ真っ直ぐに、この精神を其方に向かって奔らせる。
その勢いたるや、猪突猛進をも凌駕しよう。

しぃ、どうかその様を見守っていてほしい。

これは私にとって最初で最後の突撃だ。
何を振り返ることもなく、誰の目を気にすることもなく、ただ己の本能とお前に向かう心持ちだけで突き進む。
これこそが私の振る舞いだ。
 
しぃよ、ようやくもう一度逢える機会がやってきた。
しぃよ、数十年、この現世で共に歩み続けてくれたことだけは、私は絶対に忘失しない。
 
さあ、もうすぐ、もう一度追いつくからな。









10.ノスタルジック・シュルレアリスム(Interlude 3)