203 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 21:50:51 ID:ecWgD/1k0
8.壁 20120727KB


※ ※ ※

 貴方や貴方で無い誰かがこの文章の全てを否定してくれることを願って。

※ ※ ※

204 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 21:53:13 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーは口下手な奴でもう本当にどうしようもなかった。
おまけに天の邪鬼ときたものだから、彼はそもそも人と接触することを極端に嫌っていた。

例えば誰かが「調子はどう?」とお伺いを立てるとする。
そんな時のヒッキーの答えは大体こんな具合だ。

(-_-)「普通じゃないと思う。元気じゃないと言えばうそになるだけど、本人にそのつもりはないよ」

つまり面倒な奴なんだ。
 
しかしそんなヒッキーにも幾人かの友人がいた。
どんな世界にもヒッキーのように口下手で天の邪鬼な奴は一定以上蔓延っているものだし、
その手合いに限って群れたがったりもする。ヒッキーに近寄ってくるのも大抵そんな連中だった。

ヒッキーは、表面上そんな友人たちを煙たがっていたものの実際のところは随分と喜んでいたらしかった。
幸いにも小学校から大学まで学びを共にする友人もでき、
彼は不幸な孤独を感じないままに学生生活を終えることができた。
 
学生という身分を失う少し前、周りが就職活動とかいう訳の分からないゴマすりに必死になっていた頃。
ヒッキーは何もしていなかった。強いて言えばそれまでと同じ生活を続けていた。
だから彼は当然のごとく就職先を見つけることができず、結果卒業後は部屋へ引き籠るようになった。

ヒッキーと同じく口下手で天の邪鬼な奴らは労働の義務を果たすべく次々と働き口を見つけていった。
ある者は銀行員に、ある者はパチンコ屋の店員に、そしてある者はシステムエンジニアに。
自らの就職先を探し当てて余裕を得た者たちはヒッキーのことをやたら心配するようになった。

しかしそのたびにヒッキーはこう応じた。

(-_-)「問題ないよ。どうせ僕は人生に向いていないんだ」

それは、本心と虚栄の入り混じった、複雑な心境の吐露だった。

205 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 21:56:49 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーの両親は一人っ子の彼に醜いほど甘く接していた。だから彼はのびのびと引き籠り生活を謳歌できた。
家にいれば毎日きちんと三食を得られたし、必要最低限のプレッシャーすらも与えられなかった。

ところがヒッキーは天の邪鬼なものだから、
そんなぬるま湯の環境に人生の浪費とも言うべき強迫観念を感じてしまい、
本来ネガティブに出来ていた性根がますます暗くなってしまっていった。
 
鍵付きの彼の私室は不自由にも似た自由さがあった。
白っぽい壁に囲まれた部屋にはパソコンやベッド、
本棚など外界と遮断されるために必要な装備が十分に用意されていた。

生活力がないヒッキーが、たった一つ得意にしていたのが掃除であるものだから、
無闇に室内を侵犯されることもなかった。不自由と自由で混み合っている部屋の中で、
やがて彼は壁紙に油性マジックで適当な言葉を書き殴り始めた。

それは憂鬱なヒッキーにとって憂さ晴らしにもなったし、
日々増えていく言葉が彼に奇妙な達成感を与えるのだった。彼が書く言葉は、こんな具合だ――。

『人生が! 環状線のようにぐるぐると回り続けて! 
 周りの風景だけが我々を置いて日々変わっていくようなものであれば! 
 そして人生を終えてようやくどこの駅でもない線路の途上で立ち止まることが出来るのならば!』

206 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 21:59:44 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーの書きつける言葉にはいつも結論が欠落していた。
彼は先々のことを考えるのがとても苦手で、
だから自分の思いついた発想でさえも上手く終着点まで持っていくことが出来ずにいるのだ。

彼も時々は将来について考えを及ばせることがある。
しかしその度に上手く立ち行かないのだ。それは絶望でも諦観でもなく、ただただ漠然とした混乱だった。
 
ヒッキーの友人達は時々彼を気遣って休日に飲みに誘ったりしてくれる。
どうせするべきことなんて何も無いからヒッキーはその全てを承諾している。
実際に会ってみたところで状況が好転する要素は何一つ見つからない。

ただ互いの愚痴を投げつけ合い、愚痴の無いヒッキーは安っぽい酒で精神を濡らすばかり。
そしてそれから数週間経ってまた誘いが来る。承諾する、濡らす……
繰り返しであることには部屋の内側も外側も変わらない。

しかし時々、この誘いを全部断って友人との連絡を完全に遮ってしまうことを妄想する。
そうすると、何とも言えず背徳的な快楽を感じられるのだ。
ヒッキーは、友人達が何故未だに自分に優しくしているのか分からない。

もっとも、飲みに誘われること自体優しさであるともあまり思えてはいない。
しかし状況証拠だけ並べ立てればきっと彼らは情けをかけてくれているのだろう。
頭で理解するのは簡単だが心情としてはそんな全員を裏切ってしまうこともやぶさかでは無いと考えている。

全ての優しさを撥ねのけてしまったとき、何かが変わる気がするのだ。
友人も、両親さえも遮断してしまえばヒッキーは何にも依拠できなくなる。
そうすれば、人生は半強制的にヒッキーへ社会と向き合うよう脅かしてくるのでは無いだろうか。

誰かにその考えを披露したと仮定した際に、返ってくる言葉の種類は分かりきっている。

(´・_ゝ・`)「何も変わらない。むしろ悪くなるばかりだ」

大体こんな具合だろう。当然の忠告だ。
だからヒッキーは実行に移さず現状に甘んじている。

207 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:02:31 ID:ecWgD/1k0
『誰も俺の頭をのぞいてはいないだろうね? 
 でも人間なんて大抵分かりやすい生き物だから、俺のことだってわかられてはいるんだよ? 
 ただ指摘するのが面倒なだけでさ?』
 
舐めたら泥の味がしそうな粘っこい雨が窓外を濡らしていたある日、ヒッキーは壁紙にこう主張した。

『爆撃の後には雨が降ると言ったのは誰だったか? 哀しい戦争の話! 
 それが真実であるならば、何故世界は延々と雨で濡れそぼっていないのだ? 
 
 今日だってどこかのベランダで誰かがロープを首に巻き付けているんだ、
 それが戦争でないというなら、何故彼らは死なねばならない?』

ヒッキーは一度だけ、自らも死んでしまおうと剃刀を手にしたことがある。
それで手首を切りつけてしばらく待ってみた。どす赤い静脈血が目一杯溢れたが、やがて止まってしまった。
ヒッキーはいつまでも意識をまともに残したままだった。その時ヒッキーはほんの少しだけ涙を流した。

大泣きできるほどに、彼は死というものに対して本気では無かったのだ。
彼は積極的に生きようとも思っていなかったが衝動的に死ねるほどの消極さも持ち合わせていなかった。

208 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:05:32 ID:ecWgD/1k0
こんなヒッキーにも一度だけ恋人が出来たことがある。
それは高校時代の話で、名前をミセリという女の子だった。
彼女もヒッキーに負けないぐらい捻くれた性格の女の子だったが、容姿だけは奇跡的に抜群だった。

そんな彼女が最初の異性体験にヒッキーを選んだ動機は今もって分からない。
しかし何れ明らかなのは、ミセリがヒッキーに告白をして、
ヒッキーもその時ばかりは正直に彼女の熱意を受け入れたという事実である。
 
純情に充ち満ちた日々は凡そ半年程度継続した。
ミセリは映画、特に古典とも呼ぶべき昔の洋画が大好きだった。
その話をしているときの彼女の目は純朴としか言えないほどに輝いていた。

ところがヒッキーには彼女の話の半分も理解することができなかった。
彼女に話を合わせてみようとモノクロ映画に数度挑戦したがいずれも挫折する。
こんなものの何が面白いのかが分からない……ヒッキーは欠伸混じりにそう考えるだけだった。

そのような違いが二人の関係に即効を示すわけでは無かった。
ある時ヒッキーはいつも通り皮肉っぽく、白黒映画が根本的に理解出来ないのだとミセリに告白したことがある。
その際の彼女の返答はこんな具合だった。

ミセ*゚ー゚)リ「別に貴方にそんなの求めてないわ。
      それに、そういう考え方に相違があるのって、逆に素敵なことだと思わない」

ヒッキーはまるで救済されたかのような心持ちだった。
はにかんだように笑う彼女を真実愛おしいと考えた。
ヒッキーは、もう少しで自分の悪癖を完全に治癒することが出来ただろう。

209 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:08:39 ID:ecWgD/1k0
しかし最早その機会は永遠に訪れるまい。半年間の蜜月の後にミセリはヒッキーに別れを切り出した。

ミセ*゚ー゚)リ「他に好きな人が出来たの」

(-_-)「何だよそれ、どんな奴?」

その質問に意味は全く無かった。
口調からも視線からも、ミセリが離別を決意しているのはヒッキーにさえ明らかだったのだ。

それでも訊かざるを得なかった。すると彼女は近所に住んでいる大学生なのだと答えた。
その人とは幼なじみのような関係で、大学では映画研究部に所属しているのだと。
その男とはどんな映画を話題にしても通じ合えるし、その時間が何よりも素晴らしいのだと。

貴男と話しているときよりも数倍充実した時間を過ごせるのだと。だから私は貴男より彼を選びたいのだと。

ミセリの滔々とした告白をヒッキーはただ無心に聴いていた。声が脳みその直上を掠めていくような具合だった。

(-_-)「そうなんだ」

ミセ*゚ー゚)リ「そうなの、ごめんね」

それはヒッキーが彼女から聞いた、最初で最後の謝罪だった。

210 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:12:06 ID:ecWgD/1k0
そして二人は別れることになり、ミセリは少し年上の大学生と付き合い始めることとなった。
それが今でも継続しているのか、或いはありがちな形で崩壊してしまっているのかは分からない。
今やヒッキーの心に時々ミセリが浮上するのは、自らの人間不信がいつ頃始まったのかを考えたときだけだ。

彼女と別れてしまったという事実自体は然程尾を引く痛みでは無い。
ただヒッキーを苦しめているのは、彼女が自分に対してくれた救済の返答をいとも容易く覆してしまったことにある。
いや、彼女をして当初から嘘をつくつもりでヒッキーにそのような言葉をかけたわけではないだろう。

きっとその際には本心であったに違いない。
しかしどのような形かで幼なじみの大学生という存在が現出し、
その趣味嗜好が自らに合致するのだと悟った瞬間、彼女は心変わりを起こしてしまったのだ。

それは彼女にとっても驚愕の出来事であっただろう。

些細な芸術の端緒にも赤い糸が結びつけられている場合があるというだけの話だ。
誰が悪いわけでもない、誰にも罪はないのだ。
だからヒッキーの、この遣り場のない居たたまれなさも未だ脳内に滞留して時々姿を現せてしまう。

一連の経験がヒッキーをますます口下手に、ますます天の邪鬼にしてしまったのはまず間違いない。
しかし、だからといってヒッキー自身が現在、人生を擲ってしまっていることを他人のせいには出来ないだろう。
一生の中には大きな起伏を孕んでいる部分がある。それを学ぶべき良い機会だったのだ。

しかしヒッキーはいまいち自分の体験を消化できなかった。人生に向いていない……
その言葉が示す一端がそこにある。

過去に囚われて現在を浪費してもどうしようもないことが分かってしまっているから、
彼は今日も油性マジックで壁紙に、端数のような言葉を書き殴るのだ。

『人生は歩んでいくたびに自分がマトリョーシカであることに気付かされる! 
 年を取る度に殻を剥がされて、だんだん自分の存在が小さくなっていく! 
 だんだんだんだん、小さくなっていく! 

 それでも消えられない! 
 羽虫のように小さい何かが残り続けている!』

211 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:14:20 ID:ecWgD/1k0
何時の日か、ヒッキーはこの壁面を埋め尽くしつつある言葉を使って小説を著わそうと思ったりもしている。
しかしそれが不可能であることも同時に悟っているのだ。

言ってみればここに記されているのは縫合も困難な傷口のようなもので、
どうしたって繋ぎ合わせられるものでは無い。

あまつさえ、どこにも結論が無いのだから物語を描いたところで如何様な結末も与えられない。
それでもいいのではないか、とヒッキーは考えてしまうのだが終わらない物語の苦痛について、
何日も何ヶ月も遂には数年近くも引き籠り続けているヒッキーはよく理解しているつもりだ。

死の苦しみを知った上で誰かを惨殺するほどには、彼は発狂できていない。
壊れてしまうにしてもそれはきっと内部の話で、外部に発散することは出来ないだろう。
そのような殺伐とした心情を表す言葉をヒッキーは知っている。

そしてその言葉は、壁のあらゆる所に鏤められているのだ。

『どうでもいい』

『どうでもいい』

時には迫真の態度で、時には消え入るような調子でそれは書かれている。
そして日々を越えるごとにその自暴自棄は深みを増しているような気がしている。

212 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:18:02 ID:ecWgD/1k0
数年も経つと、自分を取り囲む壁の殆どが文字で埋め尽くされ、
最近では書き付けるスペースを見つけることさえ難しくなってきた。

そうなると、壁は違った側面を見せ始める。
そもそも、ヒッキーは壁に書き殴った言葉について、いちいちその時の記憶を保持しているわけではない。
だからそこに存在しているのは、自分の言葉でありながら自分の言葉で無いのだ。

数年前か、或いは数ヶ月前に書いた言葉は、しかし今の自分の思想と違えている部分はあまりない。
自分が進歩していないおかげで、壁はただ一方的に言葉を叩きつけられる存在から、
自らも言葉を投げ返す劣等なコミュニケーションの手段と化したのだった。
 
例えばヒッキーはその日、こんな言葉を書こうとした。

『無意味に人生が進められていく、今どの辺だ? 
 どこかにあるロープがそれを教えてくれるのかも知れない! 
 腐敗した頭を文字で書き表すのはもうたくさんなんだ!』

しかしそれに似た言葉はすでに用意されていた。

『どうせ死ぬ勇気も無い、死せるだけの手段もない! 
 それならば結局生きていくのだ!
 無様に、無恥に、遺書の風体を装った文字を完成させることも出来ずに書き殴ってばかりで!』
 
壁そのものの存在自体、自分以外の人間にはどうでも良い程度のものであることぐらいは何となく理解出来ている。
そこにへばりついている言葉も含めて、他人にとっては空虚な面にしか映らないだろう。
ヒッキーにはそんな無意味さが、人生の全体に適用されている気がしてならない。

213 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:21:37 ID:ecWgD/1k0
時々優しき友人が忠告と説教を綯い交ぜにした言葉をヒッキーにくれるのだ。
鬱病の人間に頑張れと応援してはならないなどと言う屁理屈で人生を浪費するつもりは無い。
しかしそれらの有り難いお言葉は結局ヒッキーの中で何にも干渉できず通過して言ってしまうのだ。

仮に干渉できたとして、ヒッキーは上手く消化できるだろうか。そんな筈がない。身が燃えるだけだ。
皮膚が徐々に焼け爛れていって積極的に死を死んでいくのを徒に早めるだけの結果を生む。
それは恐らく誰にとっても本意では無いのだ。

壁面の言葉がいくら数を増しても小説にならないのと同じように、
言葉が並べ立てられることには根本的に意味を持てない欠陥があるのだ。
それは本当の意味では人間を救わないだろうし、本当の意味で人間を変えられないだろう。

『だが本当の意味ってのは一体何なんだ? 
 それはどこかには実在しているものなのか? 
 俺たちが頭の中だけで勝手に考えているだけじゃ無いのか?』

その答えは、幾ら剃刀を腕にあてても出てこない。

『どうでもいい』

214 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:24:22 ID:ecWgD/1k0
だからヒッキーは自らの頭がおかしくなったとも思わずに壁と会話することが出来るのだ。
無意味な人間と無意味な壁が、無駄に互いの許容し合える部分を探してぎこちない会話を繰り広げている……
それは、まるで世間そのもののように思える。何れ人間というものは、誰だって虚ろな壁に囲まれて生きているのだ。

それは存在と不在を繰り返し点滅させながら、都合良く自分たちを覆い隠してくれたりもする。
ただし、そのせいで他の誰をも信用に足らない。
誰の壁にもその内側は言葉に似た感情的な表現で埋め尽くされているだろう。

それらを少しでも解き明かそうとすれば果てしない徒労を必要とするだろうが、
わざわざそのような苦難を選ばずとも人生を進めることは出来る。
外側からその壁を見ても、結局は何も分からない。

だから過剰なまでに言葉を交わして互いを理解するよう務めなければならない。
それが人間という生き物のシステムであるし、利点でも欠点でもあるのだろう。
進化の過程に文句をつけたところでどうしようもない。

『頭では分かっているんだ、コンドームをつけてセックスをするなんて、きっと無駄以外の何者でもないだろう! 
 けれどそのチャンスがあったら飛びつくんだよ、きっと!』

だからヒッキーは人生に向いていないのだと断言できる。
無駄な思考が思考停止でしかないことを知っていながらなお思考を続け、
遂には空虚であるべき壁を具現化してしまったのだから。

215 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:28:16 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーは、壁の前だけでは饒舌になる。話が合うと分かりきっているからだ。

(-_-)「結局誰もが知っている筈なんだ。誰が好きこのんで人身事故を起こしていると思う?
     彼らの身体が散らばっていくのを、目撃はしなくても想像ぐらいは出来るだろう。
     彼らだって本当は死にたく無かったはずだ。けれど死なざるを得なかった。

     そこには色んなプレッシャーや、責任感や罪悪感が渦を作っていて……
     それで、結局どうしようもなくなってある日唐突に自殺を思い浮かべるわけだよ。
     それを誰だって知っているだろう。この世の病だって分かっているんだろう? 

     その片鱗は、誰しもの内側に少しずつ書き込まれている筈なんだ。なのにどうしてこうなる?
     なのにどうしてこうなってしまう?」

『臆病者ほど主張者でありたがろうとする、だが哀しいかな、そいつは臆病者にしか見えないんだ!』

(-_-)「僕にだって変わることの出来る機会はあったんだろうね。
     今頃社会の一員としてバリバリと働いていた未来があったのかもしれない。

     ミセリ……。畢竟、僕は何を怖れているのだろうか?
     取り返しが付かないほどに、未来を亡失してしまっていることに今更絶望しているんだろうか? 
     それすらも分からない。僕はどうして自分がこんな気分になっているのかさえ理解出来ないんだ」

『ここに書かれる言葉の数々は全て無意識からふいと湧出したものであると宣誓する! 
 何を書いてしまっても自分は責任を持てないし、また書いたときの思考も全て忘却してしまうことを約束する! 
 だからどうか安心して欲しい!』

(-_-)「安心って、一体誰を安心させるんだ?」

『どうでもいい』

(-_-)「どうでもいいよな」

『どうでもいい』

216 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:33:34 ID:ecWgD/1k0
自分のことなんて幾ら話しても話し足りない。
そしてその内容も、棺に入って燃やされるまで完結させられないのだ。
だから社会は空気を読んで一定の区切りをつけて口を噤む。そして相手の話を傾聴することも必要だ。

それは恩返しにも似た事前行為なのである。しかし壁の内側は常にそれ以上の言葉で溢れかえっている。
それが氾濫したとき、言葉は涙や声にならない叫びといったような抽象的な逃避手段に姿を変える。

壁面はほんの少しだけ整理されるが、まだ足りない。まだまだ足りない。
きっといつまでも、自分たちは自分たちの話に飽きることを知れずに一生を終えてしまう。
もしも魂が別の器に移されて新たな人生が始まるのだとしても、やることは前と変わらない。

或いは、言葉にする前に死ぬかも知れないが、いずれ満ち足りはしない。

(-_-)「どこかの国じゃ今こうしている間にも飢餓で苦しんでいる子どもが死んでいるそうだ」

『どうでもいい』

(-_-)「原発が事故ったら大変なことになるんだって。だから出来ればあれは使わない方がいいみたい」

『どうでもいい』

(-_-)「……そうなんだよ、結局何もかもどうでもよくなってしまうんだ。
     手に負えない問題を取り扱うのって、結構骨が折れるんだよな。
     自分一人が考え続けたところで何も変わらない。

     それでいて、問題は相変わらず脳内に居座っているんだ。
     ちょっとどいてくれと言ってもなかなか難しい。

     思想なんて言うのは一種のファッションでさ、それをやってる間はちょっとハイな気分でいられるんだ。
     浮き足立つとでも言えばいいんだろうか。自分自身の壁に、ちょっとした主張と言う名の糊塗が出来る。
     よく見ればこの壁面にも……随分と社会的なことが書かれているじゃ無いか。

     そいつらと会話したことは無いけれど、きっと正面から向き合ったらかなり気恥ずかしいんだろうな。
     社会に出たことも無いものだから」

『うるさい! うるさい! やかましい! ちょっと自分の人生で忙しいんだ! 放っておいてくれ!』

(-_-)「奇遇だね、僕もなんだよ」

217 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:36:28 ID:ecWgD/1k0
やがて自分はこの壁をも撥ね付けてしまう日が来るのだろうか、とヒッキーは些か恐怖している。
壁と話しているなんて事実は傍目からすれば決して格好のいい話では無い。

だからこの奇行を誰かに知られてしまったら、
その知った相手は確実にヒッキーを精神病院へ搬送しようとするだろう。

とは言え、そのような最悪の形でヒッキーが壁と離ればなれになってしまったとしても、
結局壁は暇無く彼を包んでいるのだから何も心配することは無いのかも知れない。

真実怖ろしいのは、壁と話が合わなくなってしまう瞬間だ。
内なる壁とのコミュニケーションが良好で無くなってしまったら、ヒッキーには最早何も残らない。

物語としての完成を見ないことが分かっている自らの言葉の横暴を赦せているのは、
そうやって紡ぎ出された言葉が少なくとも自分自身にとって意味を持っているからだ。
誰にとっても意味を失った言葉に一体どれほどの意味があるだろう?

『どうでもいい』

ちっとも、どうでもよくないのだ。壁が自ずからヒッキーを拒絶することはまず有り得ないだろう。
しかしヒッキーの心情によっては壁を撥ね付けることも壁に撥ね付けられることも十分にあり得る。
そしてその心情とやらがどんな風にして移ろってしまうのか、自分自身でも分かっていないのだ。

218 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:40:04 ID:ecWgD/1k0
(-_-)「ミセリのことを憶えているかな。僕の人生が一番人生らしかった時間のことだよ。
     彼女は今幸せなんだろうか。それとも相変わらず捻くれてしまっているのかな。
     彼女にも……こんな壁があるのかな。

     それにしても、僕はどうして今更彼女のことについて喋っているんだろうね。
     本当は自分のことなんて、そんなに語れるものじゃないのかもしれない。

     いや、怖がっているんだ……誰だって、人間関係の大半を放棄した僕でさえ、
     個人的な秘密を口にするのはどうしても躊躇われる……
     秘密なんてものが僕にあるのかは分からないけれど。

     それでも、怖くて怖くてたまらないんだ。本当に必要で本当に大切なことは、
     どうやったって言葉にはなりきれないんだろうか……」

『どうでもいい』

(-_-)「本当に?」

『どうでもいいと思えないなら喜ぶべきだろう! 
 生きる価値があると思えているんだから! 錯覚! 錯覚! 錯覚? 錯覚!』
 
再び剃刀を手にしたときも、やはりヒッキーは何も考えていなかった。
そして手首の血管に目がけて傷痕を残し、再び死ねないと悟ったその直後、
ヒッキーは号泣に近いほど声を上げて涙を流した。何かが限界まで膨らんではちきれそうだったのだ。

どれだけ泣き叫んでも彼の私室は無敵だった。誰も訪れなかった。
数時間かけて泣き尽くしたあと、ヒッキーはもう一度剃刀を手に取ったが、
今度は死への恐怖で腕に沿わせることすら出来なかった。

状況も心境も何も変わっていないはずが、行動だけ奇妙に変貌している。
それが喜ぶべき状態なのかヒッキーには判然としなかったが、彼は再び壁との会話を続けることとなった。

219 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:43:18 ID:ecWgD/1k0
(-_-)「今度、また友達と飲みに行くんだ……
     いや、まだ僕に彼らを友達と呼ぶ権利があるのかは分からないけれど……
     そこでまた、この前の飲み会と同じような会話が繰り返されるんだよ。

     そろそろあいつらも責任のある仕事をするようになってるから、ますますストレスは増えているだろうし、
     溜め込んだ愚痴も爆発しかけてるんじゃないかな。

     でも最終的に一番気遣われるのはやっぱりこの僕なんだろう。
     そろそろ進退窮まっているからねえ。

     だから死のうとしているというのはすごく真っ当な理由に聞こえるんだけど、
     でも、実際はそういうわけでも無い気がする。
     緩慢に自殺したいわけじゃ無く、衝動的に唾棄されたいんだろう。

     でも、誰にもその違いなんて分からない。
     僕にも分からないよ、結論が出ないんだから。
 
     子どもの頃、死ぬことがすごく怖かった。
     死んでしまったら暗くて寂しい場所に独りぼっちで放り出されるんじゃ無いかと考えてて、
     夜中になるとそれを思って泣いたりもしたよ。

     今だって、泣きはしないけど死ぬのは怖い。けれどああいう時ってどうしようもないんだね。
     多分これからも繰り返されるんだと思う。そしてその度にきっと死ねないんだろう」
 
そしてヒッキーは壁の返答を探した。
出来れば『どうでもいい』以外の返事がよかった。
その時に見つけた、最も相応しいと思われる言葉はこうだった――。

『人生は途中で止められる! 
 環状線を一直線のように錯覚も出来るんだ! 
 しかしそれに気付いたときには、もうすでに人生を何周かしている!』

220 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:48:23 ID:ecWgD/1k0
とある作家の言葉を思い出した。
『人生にご用心』……その通り、人生とはまるで麻薬のようなものだ。
その舞台上に立っているだけで何だか自分も延々と踊り続けられるような気がする。

しかしよくよく考えてみれば、人生と言う名のプランターで大麻を栽培しているのは他ならぬ自分自身なのだ。
絶望も、希望も、喜悦も、落胆も、結局のところマッチポンプの躁鬱に過ぎない。

時々薬が切れて気分が沈んだりもする。
ヒッキーはいつ頃からかそのような具合で、最早新しい大麻を栽培する気力さえ無い。
壁の言葉も結局は、薬が創り出した譫言に過ぎないのかも知れないのだ。

『だが全てを悟った風にしてどうする? 
 悟ることは本当に正しいことなのか? 
 悟ってしまった限り、もう二度と考えを変えられない、それでもかまわないのだろうか?』
 
ヒッキーは自分が死に向かって一直線に進行できるとは思っていない。
きっと漸近線を描くように、いつまでも死には辿り着けないのだ。
ありふれた若い妄想……しかしこの部屋で壁と対話している限りはそんな気がする。

老いてゆく自分の姿が想像できない。
脳の衰退と共に楽観的な気分で死を受け入れられるようになる自分が未来の何処かに存在しているとは思えない。

『ああ、また新しい朝が来ている……』

止め処ない思考はいつも次の一日へ漂着する。時間はヒッキーに後れを取ることも置き去ることもしない。
規則正しい工場の製造ラインのごとく、コンベアは一定の速度で彼を運び続けている。
そして人生にあらゆる部品を取り付けたりもするのだ。

ただしヒッキーを載せているラインは指令系統にバグが生じているらしく、
内部からの瓦解に対して適切なパッチが与えられていない。

『いや、そもそも最初からバグっていたんだ! 
 頭なんて持たなければ良かった!』

首の無い人間が街を歩いていたら、或いは誰かが慈しんでくれるかも知れない……。

221 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:51:33 ID:ecWgD/1k0
誰かが自分を責め立てているような被害妄想が、常にヒッキーを襲い続けている。
それは自らの身分が責められても仕方ないほどに愚かなものであると自覚しているからであろうが、
だからといってその妄想に心を捩らせずに済むかというとそういうわけではないのだ。

人生に起きる大抵のことは、納得出来なくは無い。しかしそれとは関係無しに、精神が悖るのだ。
発狂しそうにすらなる。そうまでしても、まだ生きていようとするのだから人間というものは質が悪い。

だが、そういうものなのだ。
誰もがそのような妄想がそのうち払拭されることを知っている。
或いは払拭してくれる人の存在を心待ちにしている。

本気で絶望するというのは、案外体力が要るものだ。
ヒッキーを攻撃している何者かも、気が済んだら消え失せてくれるのかも知れない。

しかし、そうならなかった場合はどうするのか。きっと本気で絶望する以外の方策を探し求めるのだ。
ヒッキーは所詮脆弱な人間だから、その際には部屋を出て誰かに縋り付くこともやぶさかではない。

自分は結局のところ寂しさを拭い去ってくれる何かを求めているのだろうか? 
ある時期にミセリがそうであったように、もしくは今でも少数の友人がそうであるように、
今腕を濡らしている僅かな静脈血のように、一瞬でも寂しさを忘れられる何かを欲して止まないのだろうか。

それが結論なのだとしたら随分と滑稽な道筋を歩んできてしまったものだ。
面倒な遠回りばかりしてきてしまった。

222 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:54:58 ID:ecWgD/1k0
ヒッキーが所望しているのは抽象的な哲学への解答では無く、
リアリティに溢れた愛情でしかないのかもしれないのだ。それこそ、ラブストーリーで事足りるような……。

それはきっと、ヒッキーの人生を鮮やかにしたことだろう。
落涙する。今まで自分は何をやってきたのだろうかという、後悔よりも深い嘲笑。

だが、ヒッキーは今なお童貞のままだ。
世間的に見ればきっと彼は寂しさを払拭しようにも成し得られないように映るのだろう。

それは最早正しい。ホスピスは決して生への執着を推奨しようとはしないものだ。
錆び付いたコンベアの上で、ちょっと長く留まり続けてしまっていた。
人生は加速も逆行も出来ない不可逆性を持っているからこそ、諦めをつけられるのだ。

ヒッキーはもう一度同じ言葉を書いた。

『どうでもいい』

人生と、ミセリと、思考と、自分自身への正答だ。
とうの昔に判然としていた現実……容易い人間の容易い人生に対する、素っ気ない六文字……。

223 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 22:57:58 ID:ecWgD/1k0
この部屋がサイコロの展開図のように切り開かれたら、と想像する。
壁が倒れて夕陽の酷い眩しさが自分の全てを覆ったときのことを考える。

それぐらい詩的な事態が発生すれば、自分に何らかの変異が生じるだろうか。
光は自分を成長させてくれるだろうか。いや、もうどうでもいい。
友人達がいずれヒッキーを見捨てても、ミセリが幸せに満ちた生活を送っても、何一つ自分に損害は無い。

実際にそうなってみないと分からない、という反論もあろうが、そもそも人生には決定的に実感が欠落している。
ミセリが別れを切り出したとき、自分はもう少し醜く恋慕を引き摺ってもよかったのかもしれない。

しかしそんな気分にはなれなかった。
テレビが映し出す圧倒的な不幸や孤独に対して衝動的に発憤してもよかったのかもしれない。
しかしそんな気分にはなれなかった。
 
だからもしも壁が開かれてこの姿が露わになったとしても、自分自身は然程慌てたりしないだろう。
望むなら剃刀を片手に顰蹙を買ってやってもいい。
その自暴自棄の具合ときたら、たぶんアダルトビデオに出演する乙女のようなものだ。

代わりに、自分自身も観察者として世の中を見渡せることだろう。
西日に差されて晒される社会とやらが、自分にはどう見えることか。
壁を失った世界がどれほど醜悪になることか。

そう考えると、ほんの少し楽しみだ。
しかし実際にそのようなことは起きないのだからやはりどうでもいい話なのである。

だから心配しないで欲しい。誰もが壁に守られているし、誰も互いの内側を覗き見ることは出来ない。
たとえ人生が、眩しすぎる太陽に照らされているのだとしても、その下で眺められる表面上の言葉は、大抵

『どうでもいい』

なのだから。

224 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/05(日) 23:02:23 ID:ecWgD/1k0
浮き上がって見える言葉に大した効力など無い。
死人の切断面すら、既に何かを塗布されている。生きている間も死んだ後も、何を思う必要も無い。
終着駅を探す自信が無いのなら、コンベアの上でただじっとしていればいい。

何れそれは最期の地点にまで連れて行ってくれることだろう。
意味など見出せないこの人生をいうものは、一見不治の病のように見えてその実麻疹のようなものでしかないのだ。

だから心配しないで欲しい。どうでもいいのだ。

『どうでもいい』

本当に、それしか言うべきことがない。









9.ジジイ、突撃死