ちぎれた手紙のハレーション

132 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:16:58 ID:h2WvNwoE0
5.ちぎれた手紙のハレーション 20140731KB

『兄さま、貴方はわたくしに大いなる寵愛を授けてくださいましたね……』

外では太陽がキラリキラリと照り輝き、上空を舞う雲の波は、まるで畝って奇妙な芸術のように舞い躍ります。
少しだけそよぐ空気が、心地の良い熱を運んでくれます。

こんな日に独り部屋に引き蘢って、手書きの手紙をしたためているなどというのは、
もしかしたら背徳的な行為なのかも分かりません。
 
けれども、わたくしはどうしてもこの手紙を今日中に書き終えなければなりませんでした。
忙しなく動き回る世情に従って、わたくしもするべき事はサッサと終わらせてしまわねばならないのです……。

『貴方の寵愛は、わたくしの人生に数多の幸福を齎してくださいました。
 ですから、わたくしは貴方と共に歩んだ年月を、決して後悔などしておりません……』
 
わたくしも一人前の現代ッ子でありますから、手書きで長文を書き表すなどという事には然程慣れておりません。
こうやって書きながらも少しずつ読み返し、その文字の乱雑さに恥じらいを覚えてしまいます。

字体にはその人の育ちが其の儘表現されると申しますけれども、
それを考えるとわたくしはただただ申し訳なくなってしまいます。

『こうして互いが離ればなれになってしまってなお、
 わたくしは兄さまのことを思い出さない日は殆どないのです……』

133 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:20:04 ID:h2WvNwoE0
そういえば、昨夜はこんな夢を見ました。
 
わたくしは空を漂っていました。
生まれ故郷である田舎町の宙空を、特に何をするということもなく浮揚していたのです。

季節は夏。時刻は真昼間で今と同じように太陽の光が燦々と降り注いでいました。
なのに、そこには同時に星空も存在していたのです。
彼らの輝きは決して太陽に負ける事なく、それぞれがくっつき合い、色々な星座を形成しておりました。

そして私の眼には、まるで図鑑で見ているかのように、それぞれの星座の画がハッキリと映っていたのです。
 
そんな非現実的で酷く美しい空の下をわたくしは飛行しておりました。
すると、眼下の畦道に学生時代の知り合いを発見したのです。

彼女とはそれほど仲が良かった憶えもないのですが、
その時の私は何の疑問も持たずに彼女の元へ一目散に舞い降りていったのです。

そのとき……落下していく際に覚えた無重力的な心持ちときたら……
今思い出してさえ、身体がゾクゾクとしてまいります。

ああ……そうです、畢竟、わたくしの夢は浮遊と墜落によって構成されているのです……
現実には決して味わう事のない体験……けれども、わたくしには親しみすら覚えられる感触……。
わたくしは、もう幼き頃から、その体験の虜になっていたと言っても過言ではないのでしょう……。
 
話がそれてしまいました……そうして、わたくしは知り合いの女性のところへ降り立ちました。
彼女の風貌は私の知っているものと何ら変わるところなく……
学生時代と同じく柔和な笑みをわたくしに向けてくださっていました……何の違和感も覚えていないかのように……。

134 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:23:12 ID:h2WvNwoE0
(*゚ー゚)「こんにちは」

と、わたくしは何だか気取った風に挨拶をしました。

(*゚ー゚)「今日はいいお天気ですね」

ミセ*゚ー゚)リ「ええ、本当に」

彼女も優雅に応じてくださいました。

ミセ*゚ー゚)リ「こんな綺麗に星座が見れることなんて、滅多にないことですわ」

(*゚ー゚)「貴方はどの星座がお気に入りなのですか?」

ミセ*゚ー゚)リ「私は、実を言うと蛇遣い座が最も素敵だと思っているんですよ」

(*゚ー゚)「まあ。蛇遣い座でしたら、まだ空には昇っておりませんね」

ミセ*゚ー゚)リ「ええ、けれど、宵の口にはきっと美しく煌めいている筈ですわ」

(*゚ー゚)「本当ですわね、アハハハハ」

ミセ*゚ー゚)リ「アハハハハ……」
 
そうしてわたくしは目を覚ましました……夢の中の彼女に別れを告げる事もなく……。

135 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:27:38 ID:h2WvNwoE0
夢から醒めるたび、わたくしはいつも口惜しい気分になってしまいます。
夢の世界は大抵において素晴らしく、美しく、そして夢の中のわたくしは、
その全てが余すところなく現実であると信じ込んでいるのです。

ところが、夢から醒めるたび、わたくしの確信はたちまちにして立ち消えてしまい、
あまつさえ、同じ夢と再会することは稀にも起きてくれないのです。

そうですからわたくしは……夢と別れるたびに……わたくしの中に僅かに潜んでいる美しき部分……
自分自身に陶酔できる部分を失ってしまうような感覚に陥ってしまうのです。

『兄さまはお元気でやっていますでしょうか。わたくしのことを、まだ憶えてくださっていますでしょうか』
 
そのあとに遺るのは自己嫌悪のわたくし……どす黒く固まってしまったわたくしだけが、
心の中に居座ってしまっているような気さえしてしまうのです……。
そしてその嫌悪感はやがて他者に及び、愛すべき家族に及び、兄さまに及び……。

『突然のお手紙にさぞや驚かれたことでしょうね。
 けれどもわたくしは、どうしても直筆で兄さまにお伝えせねばならないことが出来てしまったのです。
 兄さま、兄さま……悲しんでくださいますか。寂しがってくださいますか。

 このお手紙は他でもなく、兄さまへの別れのお手紙なのですよ……』

136 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:30:27 ID:h2WvNwoE0
……その、時代遅れの山高帽を冠った背高の紳士がわたくしの部屋を訪れたのは、
今から丁度一週間まえのことです。その時も素晴らしい夢をお別れをして……
ウツラウツラとしていたわたくしのところへ、彼はあまりにも唐突に、不躾に……

願っても得られないような悪夢を携えてやってきたのです。
 
今にして思えば、どうしてわたくしは見ず知らずのあの男を部屋に入れてしまったのでしょうか……
身持ちの悪い女である自覚はありません……しかしあの時は、あの時だけはどうしても、
避けられぬ運命が形になって現れたのだと錯覚し、受け入れざるを得なかったのです。
 
部屋に入った男は帽子をとることもなく、煙草を一本、吸ってもいいかとわたくしに訊ねました。
わたくしが渋々了承いたしますと、彼は背広の胸ポケットからクリーム色の小箱を取り出して、
窓際へ歩み寄っていきました。

( ・∀・)「この煙草はね……貴女なんかもご存知かも知れませんが……ピースというんです。
      ええ、英語です。欠片ではなく、平和という意味のほうで……。

      ハハ、私はこの一生涯で、これ以外の煙草を吸うたことがないんですよ。
      そもそも煙を好んで吸う趣味は無いんでね、格好がつけばなんでもいいんです……。
      ええ、喫煙者の心理なんて大抵そんなものですよ、キットネ……。

      ほら、パッケージに鳩が描かれているでしょう。平和の象徴ですよ……。
      こんな、依存性の高い毒物に平和なんて名付ける意図について、貴女はどう思われます? 
      私は、チョット頭がおかしいんじゃないかと思うんですがネ……。

      でも、平和そのものが依存性の高い毒物だと考えると……
      どうで、なかなか小気味よい皮肉だと思いませんか。思わない……? 
      まあ何でもいいんですよ。きっと制作者にもそんな意図はありますまい。

      解釈なんてものは、各々の感性と主観の数だけ存在するという事で一つ……。
      とにかく私は、この名前に一目で惚れ込んでしまったという具合なんです……。
      それで、時々目についたら購うことにしているというワケで……」

137 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:33:23 ID:h2WvNwoE0
彼の風体は、何となく旧き小説に登場する私立探偵を思わせました。
帽子の下に垣間見える目鼻立ちはどこか日本人離れしていて、何より、部屋の中では更に背丈が際立ちました。
そうやって含蓄を呟きながら煙をツイと吐き出す姿などは、十分に板についていたと言って間違いないでしょう。

( ・∀・)「……ええ、分かっていますよ。そんな疑いの眼差しを向けずとも……
      私はこうして煙草をスパスパやるためにここを訪ねたワケじゃないんです……。
      そう、チョット退っ引きならない用事が出来たもので、こうして寄らせていただいたんですよ。

      それはね、有り体に言えば人探しと申しますか……ある方の依頼があったものでして……」

(*゚ー゚)「では、矢張り貴方様は探偵か何かでいらっしゃる……?」

( ・∀・)「ヤハリ? ……そう、そうですか。ハハ、そう見えますか。こいつはいけませんねえ。
      探偵がイカニモ探偵という格好をしていることほど滑稽なものはありません……
      私服警官が警察手帳をぶら下げて歩いているようなもんです。

      今後は改善に努めましょう。ええ、そうしましょう……
      然しね、今回はもう、貴女に気付いていただいても一向に構わないんですよ。
      何せ私の役目は貴女を突き止めた時点で、とうに終わってしまっているものですから……」

138 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:36:25 ID:h2WvNwoE0
そうして彼は、背広の内ポケットから一枚の写真を取り出し、わたくしに手渡しました。
それはモノクロで仕上がったポラロイド調の写真で、まるで昭和以前の雰囲気を匂わせるものでした。
そしてそこには一人の、何の変哲もない若い男性が写されておりました。全然見覚えのない男性の顔が……。

(*゚ー゚)「あの、この方は……?」

( ・∀・)「きっとそう言うだろうと思っていましたよ……。いやね、依頼人には聞かされておったのです。
      彼女は記憶を喪失してしまっているかもしれない、
      だから僕の顔を見ても何もハッキリ思い出せないだろう……とね。

      それだからこそ、私のような私立探偵にお鉢が回ってきたという具合で……。まあ、何でもいいんですよ」

彼はそこで、不自然なほどに口角をつり上げた笑みを浮かべてみせました。
その表情が何とも恐ろしく恐ろしく……わたくしはとても直視することが出来ませんでした。

( ・∀・)「ええ、落ち着いてよくお聞きください……この方は、貴女の婚約者なのですよ」
 
わたくしは目を見開いてその写真と、彼の顔を交互に見つめました。
そして、ヒュウ、と音階の外れた呼吸をしながら「そんな……」とやっと一言呟いたのです。

( ・∀・)「ほほう……やはり全部依頼人の……貴女の婚約者の予想した通りでしたか。
      ええ、きっと何やらの特別な事情があったのでしょう。貴女はこの顔の人物を憶えていない、
      それどころか、自分が誰彼と婚約したかどうかさえ、記憶していない……そういうワケですね?」
 
わたくしはただ、コクリと首肯するのがやっとでした。

139 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:39:45 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「そうですか。それは困った事態ですナ……。然し、既に調べはついているんですよ。
      ここへ伺う前に、予め言質は取れているというワケで……。

      ええ、つまり依頼人のご家族、及び貴女のご両親にも事情をお聞きしましてね。
      この依頼人と貴女が三ヶ月ほど以前に婚約を結ばれ、
      各々のご両親への挨拶も済ませているという事は、既にハッキリしているというわけです」

(*゚ー゚)「そんな、何かの間違いでは……」

( ・∀・)「間違いではない! ……ええ、現に私がここに辿り着いたのがその証拠ではありませんか。
      私だって何も闇雲に、シラミつぶしに貴女の苗字の彫られた表札を探して歩いたんじゃあないんですよ。
 
      貴女は一ヶ月ほど前、突如依頼人の前から姿を消した。
      以来、彼は貴女を発見しようと這々の態で動き回ったのです。それでも見つかりやしない……
      それで彼は、恥を忍び、断腸の思いで私や貴女のご両親に相談を持ちかけたと、そういうワケです。

      貴女の居場所はご両親が大体の見当をつけてくれました。
      曰く、娘は静かな場所を好み、また所縁のないところを嫌うと……故に、大学生の頃、
      下宿していた辺りが怪しいのではないかと……そしてその推測は、見事的中していた」
 
わたくしはもう一度、目を凝らして写真の人物を眺めました。
ごくごく普通の、何一つ印象的ではない男性の表情……。
それこそ、通りすがりの見知らぬ他人に向けるような感情しか湧いてきません。

こんな男性と知り合いになり、ましてや婚約を結んだ自分がいるなどということは、全く信じられないことでした。

……そして何よりも……こんな言い方は可笑しいかもしれないですけれど……
わたくしには記憶喪失になった憶えが一切ないのです。

140 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:42:17 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……まあ、よくよく驚かれるのも無理もない。
      然しね、貴女の仕掛けた今回の失踪劇は、
      ある程度貴女自身によって意図されていたものだったんですよ」

(*゚ー゚)「……どういうことです、それは……」

( ・∀・)「貴女は失踪直後、ご自身の携帯電話を解約しておられる。
      それで、依頼人もご両親も連絡が取れなかったという経緯があります。
 
      このご時世にわざわざご自身の電話番号を失われるなど、
      相応の覚悟をもってでしかなし得ない事ではありませんか。そう思うでしょう? 

      ……いやいや、これは、今の貴女を責め立て、糾弾しても何ら意味のないことではありますがネ……。
      ただ、一つ考えていただきたいのは、過去の貴女はご自身の意思をもって、
      計画的に今回の芝居を打ったという事実でありまして。

      そこには何らかの、重大な動機が秘められている筈なんですよ」

(*゚ー゚)「そんなこと……わたくしは、まだ、この男性……
     わたくしが婚約を結んでいる男性のことも思い出せていませんのよ。
     そもそも、わたくしが婚約なんて……誰か様と、そんな縁を結んでいただなんて……」

( ・∀・)「ほほう、ご自分が婚約者の身分であるということがそれほどに信じられませんか」

(*゚ー゚)「だってそうでしょう? 
     婚約をしたということは、私はその方に恋慕し、また恋慕していただき、
     長い時間を経てようやく到達する頂ではありませんか。

     それほどに貴ぶべき時間の全部が、現在の私の頭からはスッポリと抜け落ちてしまっているのです……。
     だって、正直に申し上げますと、今この方の写真を見ても、何の好意も抱けないんですのよ……」

141 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:45:29 ID:h2WvNwoE0
わたくしは、もう殆ど耄けたような心持ちになっておりましたが、
それでもまだ、この探偵への疑いを持ち続けていました。

すなわち、全てがこの、探偵を名乗る男の一人芝居なのではないかと……
全ては、何らかの目的でわたくしを騙すための策略に過ぎないのではないかと……。
 
しかし、そんなわたくしの疑惑や期待は、彼の次の言葉によって華麗に打ち砕かれることとなってしまったのです。

( ・∀・)「イヤイヤ……貴女の恋愛観は素晴らしいものです。
      この時代にそれほど堅牢な心をお持ちである事には、ホトホト頭が下がる思いです。

      とは言え……私も職業柄、貴女の感情的な言葉だけで屈するわけにもいかない……
      ええ、これは男性である私からはやや言いにくいんですがね……
      依頼人が貴女を心配なさっていたのには、格別の理由があるからなんですよ……。

      これは直接的な動機があるわけではなく、
      ただ依頼人が過去の貴女からお聞きなさっただけのことではありますが……
      事実であれば成る可く速やかに自覚していただかなければならない……。

      ええ、そうです。過去の貴女はね、依頼人に、ご自身が身重であるという風に告白したそうなんですよ」
 
私は彼の言葉を噛み砕いて、ようやく意味を理解した瞬間にグラリと揺らめくような目眩を覚えました。
それと同時に、お腹の方から心臓に向かってゾワゾワと悪寒が競り上がりました。
まるで言葉に反応し、自らの存在を主張するかのような不気味な悪寒が……。

142 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:49:06 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「ええ、もっとも、まだ月日は浅く……外見で判別できるものではありません。
      然し乍ら貴女自身がお感じになられた様々な変化が……その事実を明確に物語っていたのだそうです。
      依頼人は……ええ、勿論貴女もです……それはそれはお喜びになられたそうですよ。

      それで、近いうちに連れ立って病院に行き、
      正確な事実を把握しようという手筈まで組んでいたとのことなのです。
      けれども、その矢先に貴女が失踪なされた……。

      そのため、依頼人は『過去の貴女が過去の貴女の儘であれば』失踪するなど考えられないと、
      こう予測立てたワケでしてネ。まあ、勿論勾引されたという可能性もお考えになったそうですが……
      そうだとすれば、ご本人によって携帯電話が解約されているというのは、どうにもオカシイ。

      そう、それこそ記憶喪失になったとでも考えなければ有り得ない事態だった、とそういうわけなんです……
      オヤ、大丈夫ですか? 相当にお顔色が悪いようですが……」

(*゚ー゚)「気になさらないでください」

と、わたくしは言葉を絞り出しました。勿論、まだ信じられない気持ちでいっぱいでした。
けれども、それでも、悪寒が止まりませんでした……まるでわたくしの身体を乗っ取ろうとしているかのように、
徐々に震えが全身へと行き渡ってゆくのです……。

143 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:51:29 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……ええ、まあ、私も専門の医者ではないんでネ……
      貴女を一見してご懐妊されているかどうかなど分かる由もない……
      どうしても信用できないようであれば、一度ご自身で産婦人科などに通ってみては如何でしょう……。

      イヤイヤ、というのもね、依頼人はすぐに貴女を連れ戻そうという気はないんですよ……
      ええ、これは貴女のためを思ってのことです。記憶喪失にせよ何にせよ……
 
      まあ、結果的に予想通りだったワケですが……この時期に失踪なさるということには、
      余程の動機があったに違いない、彼女には彼女自身、心の整理をつけてから帰ってきてもらいたいと、
      そう仰るんですな……。

      実際、ねえ? 今から依頼人の元へお帰りになったところで、益々混乱するばかりでしょう、
      そう思いませんか……。そういうわけですので、貴女にはいましばらく、猶予があるのです。
 
      本来ならば私の仕事はここで終いなんですが、そうですナ……
      一週間後を目処に、もう一度此処へお伺いします。それまでに、身辺整理をするということで一つ……。
 
      その際にも帰宅を拒否されるようならば、私は何度だってやって参りますよ。
      何せ暇なものでしてネ……。しかしまあ、私も仕事ですので、
      契約している期間はそれ相応の料金を頂きます……

      無論、それだけ依頼人の金銭的負担も膨れ上がるという具合で……
      まあまあ、それは今の貴女が考えるべき事案ではないですな。

      失礼、どうもこういう商売ですと、銭金の問題に敏感になってしまうものなんですよ……
      今時、私立探偵なんて流行りませんからねえ……この服も一張羅なんですよ……アハハハハ……」
 
わたくしは、一人でペラペラと、さも楽しそうに喋り続ける彼をぼうっと見遣っておりました。
そのうちに無意識に下腹部を撫ぜようとした手を、バチリと他方の手で払いのけました。
今は自分の身体など触りたくもない……そんな心持ちで……。

144 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:54:56 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……おっと、失礼……チョイと長居しすぎたようですな……
      ああそうそう、名刺を置いておきますんでネ、
      何かお困りごとがあったらいつでもその番号にお掛けください。

      ああ、この名刺ね、一応名前は記してあるんですが、あくまでも仮名でして……
      ほら、一枚ごとに名前が違うでしょう? まあ、用心するに越した事はないというワケで。
 
      けれども身分は確かですよ。何なら、ご両親に連絡を取ってみては如何です? 
      きっと私の評判が聞ける筈です。もっとも、ご両親には別の名前で知られているかもしれませんがネ……
      どうもそのあたりの物覚えが悪くて……アハハハハ、ではこれにて……」
 
……彼が立ち去った後、ポッカリと穴があいてしまったような空間を、わたくしはただただ呆然と眺めておりました。
どれぐらいそのままで居たでしょう……。不意に我に返ったわたくしは、早速両親に連絡を取ろうと試みました。

しかし……もしも探偵の言葉が真実であれば、両親もまた、彼と同じようなことを、
追い討ちをかけるようにして私に告げるだけでしょう。或いは、必要以上の語気で叱責されるやもしれません。
その口撃に今のわたくしが耐えられる筈もありませんでした。

かと言って、探偵の言葉の一切合切を全否定されてしまえば、
わたくしは愈々頭がおかしくなってしまうかもしれません。それだけ彼の言葉には迫力と真実味があったのです。

ですから、わたくしは両親に連絡を取るのをやめてしまい……近所のドラッグストアへ走ることにしました。
そこでわたくしは……もう本当に、顔から火が出るような思いで……妊娠検査薬を購ったのです。

無論、病院に行けばもっと確実な状態が判明するのでしょうけれど、
とてもそんな勇気を出すことは出来ませんでした。
然し、市販の妊娠検査薬でさえも、九分九厘、正確な結論を叩き出してしまうのです……。

『兄さま、実はこのたび、わたくしはとある方の子を妊娠したのです……』

145 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 21:57:50 ID:h2WvNwoE0
結果は、何度見ても変わりませんでした。
探偵に妊娠の疑惑を突きつけられたその当日に、わたくしは自分の身に、
自分の子どもが宿っていることを理解したのです。

それはもう、今までに見たどんな悪夢よりも絶望的で、そして突き刺さるように痛むほど現実的でした。
わたくしは、つまり、そういった行為を誰彼と交わした憶えはなく、
しかしその証拠はこのお腹に明白に存在しているようなのです。

そんな自分がふしだらにさえ思えてしまい、自己嫌悪が一層に肥大していくのでした。

『けれども、兄さま、信じていただけますか。わたくしは、それでも、それでも……』
 
最早、妊娠という事実だけで探偵の言葉を鵜呑みにするには十分でした。
何らかの理由によって記憶を喪失し、愛すべき人をおいて逃げ去ってしまった……
それが、ようやく自分自身のことなのだと了承するに至りました。
 
ああ、けれど、それでもわたくしは、探偵が置いていった写真を見ても何の感慨も持てずにいました。
わたくしの好みに合うかどうかも分からず、ましてや記憶の引き出しが開かれる気配もありません。

けれども、この男性と愛を交わしたというイメージは徐々に現実味を帯びていき、
わたくしは独りで煩悶せざるを得ませんでした。それは惨めなほどに背徳的で、堕落的で……。
ああ、このお腹に子がいなければ、わたくしはきっとナイフでもって自死していたことでしょう。

けれども、子殺しという罪は脳内で想像することさえ重すぎて我慢できず、
結局は何も出来ずにグシャグシャと髪の毛をかき混ぜてばかりいたのでした。

『兄さま、わたくしは現実を受け止めなければなりませんでした。
 わたくしは、誰か様の元へ嫁ぐという現実を受け止めなければなりませんでした』

146 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:00:22 ID:h2WvNwoE0
探偵はわたくしに、身辺整理をしておくようにと告げましたが、
わたくしには特段……自分の心情を除き、整理しておくべき物事など思いつきませんでした。
ですので、もう今すぐにでも、名刺に記された番号へ連絡することも可能だったのです。

けれどもそれは、わたくしにとって自ら断頭台に上がる日を選ぶようなものでした。
電話をした瞬間にモノクロの男性が、それに伴うあらゆる出来事が色調を得てわたくしに降り掛かることを考えると、もう、とても自分から連絡をとるなどという手段には及べませんでした。

しかしそれはまた、お腹の子どもを無闇に放置しているようにさえ思われ、
わたくしはあらゆる嫌悪感によって雁字搦めに縛り付けられてしまったのです。
 
そうして生きている心地などひとつも得られないような日々が一日、また一日と過ぎてゆきました。

わたくしはただ、自室に横たわって再びやってくるであろう探偵の足音に怯え続けていたのです。
そうやって怯え続けている事にやがて疲れ果て、ウトウトとした微睡みに溺れ……
そうしてまた、一日が無為に終わるのでした。

『兄さま、年の離れた兄さまは、わたくしにとって親も同然の存在でありました。
 そして兄さまもまた、わたくしのことを娘のように可愛がってくださいましたね』

147 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:04:41 ID:h2WvNwoE0
そして一昨日のことでした。また微睡みに浸っている私は、朧げな夢を見たのです。
それはわたくしと兄さまがまだ子どもだった頃の遠く懐かしき思い出を描くものでした。
十も歳の離れた兄さまは、まだ二歳くらいのわたくしを抱き上げ、タカイタカイを繰り返してくれていたのです。
 
恐らく、両親がやっていたのを真似てみたのでしょう。
まだ背も低かった兄さまは、わたくしを出来るだけ高く抱き上げるために背伸びまでしていました。
それから、フウと息をついてほとんど落とすようにして手元にわたくしを戻します。

わたくしがキャッキャと喜ぶものですから、兄さまはまた踏ん張ってわたくしを抱え上げ、
タカイタカイ、タカイタカイ、と云うのでした。
その繰り返しを、兄さまは腕が上がらなくなるまでいつまでもいつまでも続けてくれるのでした。

『物心ついたわたくしが最初に受けた兄さまの愛が、あのタカイタカイでした。
 兄さまのタカイタカイはちょっと危なげで、特に腕をおろすときなんかは随分スピードがあり、
 わたくしは幼心にスリルを感じていたように思います。

 けれど、そんな兄さまのタカイタカイが、わたくしは大好きでした』

148 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:08:12 ID:h2WvNwoE0
その夢の中で、わたくしは兄さまと幼いわたくしがタカイタカイをしているのを、
どこからともなく客観的に眺めておりました。

しばらくは、何だか温かい気持ちでその様子を見守っていたのですが、
やがて、兄さまに抱かれている小さい自分が羨ましくて堪らなくなりました。

それは、恥ずかしながら殆ど嫉妬のような情念であり、
わたくしも、もう一度兄さまに抱かれたい、といつの間にか狂おしいほどに欲していたのです。

『そして、わたくしはどうしてか、今なお兄さまに抱き上げられたいという思いを捨てられずにいるのです』
 
必死にタカイタカイをしている兄さまに近づこうと、夢の中のわたくしは、
存在しているかも分からない身体を蠢かせて接近を試みました。
そしてあわよくば、小さい自分から兄さまの手元を奪い取ってしまおうとしていたのです。
 
何故それほどに執念を燃やしているのか……自分自身にも分かりませんでした。
ただただ本能の赴くままに……理性をどこかに置き去ってまで、わたくしは兄さまに抱かれようとしていたのです。
そして散々に踠き苦しんだ後、わたくしはようやく兄さまの手元に辿り着いたのです。
 
夢の中のわたくしは、小さい頃のわたくしの身体と同化しておりました。
わたくしは、何の違和感もなく、まんまと兄さまの手の中に侵入することができたのです。
そして案の定、兄さまは疑う事もなく、またタカイタカイをしてくださいました。

タカイタカイ。タカイタカイ。タカイタカイ。タカイタカイ……。

149 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:11:11 ID:h2WvNwoE0
『気付いた事があります。わたくしはよく夢の中で空を飛んだり、そして落ちていったりします。
 何だか気味の悪いようにも聞こえますが、わたくしにとってそれは酷く心地の良いものなのです。
 それが何故なのか……全ては、兄さまの、タカイタカイに起因しているように思えてならないのです……』
 
その浮揚と、無重力的な墜落……わたくしには、それがもうたまらないのです。
ましてやそれが、夢の中でとはいえ、兄さまの手でしていただいているのですから。
それは懐古の念だけではなく、何やら抑えのきかない情欲を燃やすのでした。
 
わたくしはしばしその快楽を享受し続けました。
頭の中では、兄さまとの思い出が齣撮りの映画みたいに流れていました。それはあまりにも幸せでした。
あまりにも美しくありました。

このまま死んでも一向に構わない。いやむしろ、兄さまの手の中で死んでしまいたいと何度思ったことでしょう。
夢の中で、もう少し身体に自由が利いていたら、
わたくしは自らの口で直接兄さまにお願いしていたかもわかりません。
 
そうして永劫のような時間の後に目覚めたわたくしは、それが夢だと徐々に認識していくと同時に、
襲いかかってくる現実の怖さを前にしてサメザメと泣き続けました。
そして、兄さまに逢いたくてたまらなくなってしまっていました。

ああ、もう一度だけでいい。兄さまに抱きしめていただきたい。それさえ叶えられるなら、わたくしは、もう、もう……。

150 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:14:13 ID:h2WvNwoE0
『……一つ、奇妙な疑問があるのです。わたくしの処へやってきた探偵は、
 わたくしの婚約者や、わたくしの両親について口にしましたが、
 ただの一度として兄さまについて言及しなかったのです。

 あの方は、必要最低限の情報のみを伝えたために兄さまのことを口にしなかったのでしょうか。
 それとも、敢えて口に出さなかったのでしょうか……』
 
そうして、わたくしは手紙を書くことにしたのです。
まるで遺書のように丁寧に、どれだけ疲れても手書きで書き綴ろうと心に決めて……。

もうすぐ探偵がやってきます。そうしたら、わたくしはもう拒否の姿勢をとることは出来ないでしょう。
黙ってついていくより他にないのです。ですからそれまでに、
満身創痍の身体に鞭打って何とかこの手紙を書き終えなければなりませんでした。

『けれども、婚約した方の顔や氏名は忘れてしまっていても、兄さまのことは今なおハッキリと憶えております。
 兄さまの姿形は脳裏にしっかりと浮かび上がり、揺らぐ気配もありません。

 愛しい兄さま。そろそろ筆を置かねばなりませんが、
 わたくしにはこの手紙を締めくくる言葉がどうにも思い浮かばないのです。まだまだ書きたいことは山とあります。
 せめて、嫁いでしまう前にもう一度お会いしたかった。もう一度お顔を見たかった。もう一度お話ししたかった……』
 
外では太陽がキラリキラリと照り輝き、上空を舞う雲の波は、まるで畝って奇妙な芸術のように舞い躍ります。
こんなよい日にわたくしは何という思いを抱えてしまっているのでしょう。

そして、わたくしは何というものを失ってしまったのでしょう。

151 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:17:20 ID:h2WvNwoE0
『ああ、けれどこれは今生の別れではありませんでしょう……そうであることを願うしかありません。
 ですからわたくしは、ここで、一度この手紙を区切りたいと思います。
 またいつか、お手紙を書かせていただきますね。

 ねえ、兄さま……よければお返事をください。わたくしは、ただそれを渇望するだけで生きてゆけます。
 それでは兄さま、ごきげんよう……』
 
遂にわたくしは筆を置きました。そして丁寧に手紙を折り畳み、予め用意していた封筒に入れ、綺麗に封をしました。
そして、宛名のところに兄さまの名前を書き……。

( ・∀・)「もうそろそろ、よろしいですか」

不意に背後から聞こえてきた声に、わたくしは思わず悲鳴をあげてしまいました。
そうして恐る恐る振り返ってみますと、例の探偵が、
あの不自然に口角をつり上げた笑みを浮かべて突っ立っていたのです。

( ・∀・)「いやいや失礼……驚かせましたかネ。けれども貴女も不用心なものですよ、
      女性の独り住まいで鍵もかけていないなんて……。
      もしこれが押し入り強盗だったらどうするんです……アハハハハ。まあ、何だっていいんです。

      実はかれこれ十分ほど前からここに居ったのですがね。
      どうも忙しげでしたから、声をかける機会を見計らっていたんですよ……驚かせてしまいましたかネ。
      まあ、いつにしたって貴女は驚いていたことでしょう。仕方ない仕方ない……。

      さて、ではそろそろ参りましょうか。貴女も、拒否する意思は無いようですからネ……」

152 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:20:34 ID:h2WvNwoE0
(*゚ー゚)「待ってください」

わたくしは、もう殆ど叫んでおりました。

(*゚ー゚)「せめてこの手紙を出させてください。これは、大切な手紙なのです。
     これを出さないことには、わたくしは心積もりを固めることが出来ません……」
 
探偵はジッとわたくしのことを見下ろしておりました。そしてアハハと笑い、それから突然、
私の手から封筒を奪い取りました。

(*゚ー゚)「何を……」

取り戻そうと手を伸ばすわたくしの前で、探偵は笑みを浮かべたまま、その封筒を中身ごと縦横に引き裂きました。

( ・∀・)「ご冗談を」

ハラハラと落ちてゆく紙片の向こう側で、探偵は声を潜めました。

( ・∀・)「こんな手紙に意味などありますまい……殊に、宛てる住所の分からぬ手紙というものにはね」

(*゚ー゚)「え……」

( ・∀・)「何を驚いてらっしゃるんです? 
      だったら貴女には、その『兄さま』とやらの住処がお分かりなのですか? ……ほら、分かる筈も無い。
      だって、貴女と貴女のご兄弟は、両親によって無理矢理別れさせられたのですからネ……

      もしや、そのこともお忘れに? 貴女が幾ら望もうとも、この手紙は『兄さま』には届かず、
      ましてや再会など果たせる筈もないのですよ……。

      ええ、けれども貴女は誰を恨むべきでもありませんよ……
      だって、両親は善かれと思って二人の仲を取り計らったのですから。
      ただし、それがために貴女の記憶に混濁が生まれた可能性もなきにしもあらず……。

      ええ、知っております。全部知っておりますとも。わたくしは貴女がたご兄弟の関係も、
      何もかも調べきっておりますとも……」

そして探偵は、伸ばしたまま硬直していたわたくしの手を握って無理矢理に立ち上がらせ、
ふと真顔で呟いたのです。

153 : ◆xh7i0CWaMo :2014/10/01(水) 22:24:08 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「けれどもネ……ご安心ください。
      貴女の望む『兄さま』とやらは……きっと、こんな千切れた手紙さえも頼りにして、
      きっと貴女の元へ辿り着くことでしょう……。

      貴女が『兄さま』を熱望するのと同じぐらい、『兄さま』も貴女を熱望しているのです……
      だから何の心配もない……ええ、要らないんですよ。

      私はご両親の強い願いもあって敢えて『兄さま』のことを口にしませんでしたが、
      貴女自身の記憶が確かである以上、貴女がた二人の仲までは阻害しませんとも……。
      だってそれは仕事じゃありませんからね……アハハハハ。

      大丈夫、お二人の心意気次第で、貴女がたは天国にも地獄にも堕ちられるでしょう。
      今はただ、待ち侘びることです」
 
……一陣の風が吹いて、床に散らばった手紙の破片をユルリと窓の外へと運んでゆきました。









6.聖夜の恵みを(Interlude 2)