雷鳴

102 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 20:46:48 ID:9BaR2n0c0
4.雷鳴 20120928KB

彼女が外出するのを見送ってから、ぼくはすぐ準備に取りかかった。
いつも通勤に使っているネクタイで輪を作り、リビングの椅子に上って吊照明に結びつける。

これが案外と手間取った。
輪の作り方は何度も練習を重ねて心得ていたものの、
照明の傘が邪魔してなかなか上手くネクタイを取り付けられないのだ。

この点はインターネットには記されていなかった問題だった。
不器用なぼくのやることだからテレビドラマで見るような美しい死に様にはなりそうになかったし、
何よりも、その問題にぶつかったことで本当にこの装置がぼくを死なせてくれるのか不安でたまらなくなってきた。

しかしぼくは決めていた。
苦心してネクタイを結び終え、今日のために書き留めておいた三枚の遺書をテーブルに重ねる。
あとは足下の椅子を蹴ってしまえば終わりだ。そう信じておかないとやってられない。

そう、首吊りは苦痛が少ないというネットの情報にしたって、試してみなければ分からないのだ。
だが、今の時点では楽に死ねると自分に言い聞かせるよりほかない。
 
そうして思い切りよく椅子を蹴飛ばそうとした瞬間、背後で凄まじい閃光が迸った。
ぼくは背中を氷で撫でられたような反応を示し、恐る恐る振り返った。

103 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 20:49:33 ID:9BaR2n0c0
椅子の上から見える窓の外は、いつの間にか仄暗い曇天に覆われていた。唐突に日が沈んだみたいだ。
夕刻までまだ時間はたっぷりと残されているはずなのに、今にも夜が降りかかってきそうである。
 
そんな状況に、ぼくは少しだけ興奮してきた。何だか、思いもよらずいい死に様になりそうだからだ。
部屋の電気も消してしまった方がいい、とぼくは思い、早速椅子から下りて照明のスイッチを切った。
それと同時に、遠くの方から微かな雷鳴が聞こえてきた。ぼくはますます盛り上がった。
 
再び椅子の上に立とうとしたとき、窓ガラスにぽつ、と一粒の水滴がすいついた。
それは次々とガラスにはりついて、たちまち全体に湿り気を纏わせる。
 
ぼくはほんの少し感傷的な気分でその模様を眺めていた。
雨は瞬く間に勢いを増して、どうどうと膨らんだ雑音をかき鳴らす。
夏の終わりにはありがちな、通り雨というやつだろう。そしてまた、空全体が瞬間的に輝いた。

ぼくは何の気なしに音が迫ってくるまでの時間を数えてみる。十を数え終わるぐらいでそれは響いた。
まだまだ雷雲は遠くにありそうだ。

104 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 20:52:16 ID:9BaR2n0c0
さて、準備は整った。舞台装置は、思った以上の効果を引き出している。
こんな雨の中で死に、晴れ上がった頃に天国へ舞い上がれるならそれは純粋に幸せな幕引きだろう。
椅子に上ってネクタイに首を通す。目を閉じて、ちょっとだけ過去のことを随想する。

これまでに関係を持った人たちのことを考える。豪雨の音ばかりがぼくの耳に届いている。さあ、行くとしよう。
 
唐突に玄関ドアの閉まる音が響いた。次いで、ととと、と部屋に駆け込んでくる軽めの足音。
ぼくは反射的に首からネクタイを離し、慌てて椅子から下りようとした。

しかし、二人暮らしには少し狭いぐらいの間取りで、
彼女がぼくを見つけるまでに平静を装うことなどできるはずもなかった。

105 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 20:55:50 ID:9BaR2n0c0
というわけで、ぼくは椅子の上で息を切らしている彼女と対面したのである。
しばしの沈黙のあと、まず彼女は部屋の照明を付けた。ぼくの滑稽な姿が白色灯の下に晒される。

それと同時に彼女の姿もようやく明瞭になった。
小刻みに上下している肩や頭が濡れそぼっていることから、彼女が傘を持たずに家を出てしまったことが分かる。
そしてそれを取るために急いで引き返してきたということも。

本来なら彼女は、友人との買い物であと二時間は戻ってこない予定だった。
二時間もあれば、ぼくの計画は確実に遂行されるはずだったのだ。
しかし、感傷的にも思えた突然の大雨がぼくから機会を奪い取ってしまったのである。

あまつさえ、ぼくの計画そのものすらも、
考えられる限り最も惨めな方法で彼女に見せつけることになってしまったのだ。

ミセ*゚ー゚)リ「なにしてるの」

と彼女は言った。死化粧のような温度の口調で。

( ・∀・)「いや、べつに」

とぼく。とても言い逃れできる状況では無かった。
ぼくの眼前で、丸い形のネクタイがフラフラとなびいてしまっている。

107 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 20:58:27 ID:9BaR2n0c0
椅子の上で突っ立っている間抜けなぼくを置いて、彼女はテーブルにあった――
本来ならぼくが死んだ後に読まれるはずの――遺書を拾った。
それは決して、目の前で読まれたい出来映えでは無かった。

何しろ死んでしまう理由が殆ど見当たらなかったから、
少ない要因をクレープ生地のように薄くのばしたようやくできあがった駄作なのだ。

彼女はしばらく目を通してからもう一度ぼくを見上げた。
悲嘆に暮れているようで、軽蔑しているようにも見える瞳。
ぼくは彼女の髪と瞳が好きだった。それらは、何故かぼくを非常に安心させてくれた。

ミセ*゚ー゚)リ「あなたがこんなことするなんて、思いもしなかった」

さっきよりは幾分重々しい口調で彼女は言う。
しかし、まだ端々に戸惑いが覗いて見える。

ミセ*゚ー゚)リ「でもわからない。これを読んでもぜんぜんわからない。あなたは何故死のうと思ったの。
       あなたは何故、死ななければならないの」

( ・∀・)「わからないよ」

こうなった以上、ぼくに残されているのは素直に白状する道だけだ。
ぼくはできるだけ自らの心持ちを、真実を話そうと努めた。

( ・∀・)「自分でも理解できないんだ。どうしてこんなことをしないといけないのか。
      でも、それはそういうものなんだと思う。そう捉えるしか方法はないんだよ。
      ぼくはとにかく、死ななければならないんだ」

108 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:02:10 ID:9BaR2n0c0
しかし、どうやったってぼくの言葉を素直だとは取ってもらえないだろう。
自分でも分かっていないことを相手に説明するなんて、どだい無理な話なのだ。

当然、彼女は納得しなかった。険しい表情のままぼくに近づき、

ミセ*゚ー゚)リ「降りてよ」

と言葉を投げた。ぼくは素直に従った。
今まで使っていたこの椅子が、普段彼女の座っているものだということに、そのとき初めて気がついた。
 
相変わらず降りしきる雨の音。
それはぼくを取り巻く状況の変化に合わせて、いっそう緊張感を際立たせているようにも思える。
ぼくも彼女も、互いに立ち竦んだまま一切の言葉を放てずにいた。

ぼくには、このような状況で口にするべき台詞が何一つ思い浮かばなかったのだ。
恐らく、彼女のほうも同じだろう。

ミセ*゚ー゚)リ「座ろう」
 
一分ぐらいしてから彼女はそう呟き、自ら率先して椅子に座り込んだ。
ぼくもテーブルの向かいにまわって腰を下ろす。
ぼくたちが対峙するその間には、醜悪な完成度の遺書が無造作に散らばっている。

できることなら今すぐにでもこの三枚を滅茶苦茶に破いて捨て去ってしまいたかった。
しかし、今この場で勝手な行動が許されるとはとても思えない。
ぼくはまるで、模範囚のような面持ちで彼女と、彼女の奥にある壁を見つめていた。

109 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:05:58 ID:9BaR2n0c0
稲光……修羅場を演出するにはあまりにも紋切り型に過ぎる。しかしそれは現実に起きていた。
ぼくは彼女の次なる言葉をただ呆然と待ち続けていた。
自ら何かを発するつもりは毛頭なく、ただひたすらに彼女へ従属しようという思いがあるばかりだった。

それは結局のところ逃避でしかないのかもしれないが、
だからといって積極的な行動が実を結ぶような場面であるとも思えない。
不思議と、ぼくは自分が浮気でもしてしまったかのような焦燥感に駆り立てられていた。

ミセ*゚ー゚)リ「ひどい」

と雨音にかき消される程度の声音で彼女は言った。

ミセ*゚ー゚)リ「どうして一言も相談してくれなかったの。何で頼ってくれなかったの」

( ・∀・)「ごめんね」

とぼくは少し俯いた。

ミセ*゚ー゚)リ「何かいやなことでもあったの。会社とか、人間関係とか……」

( ・∀・)「いや、万事がうまく進んでいたよ。ぼくにしては上出来なぐらい、順風満帆な人生を歩んでいたと思う。
      充足していない、なんてことは何一つないんだ。だから誰のせいでもないんだよ」
 
嫌みたらしい言い回しだと、われながら思った。核心を突かずにその周囲を堂々巡りしているような調子。
相手を苛立たせるには十分な冗長さがあった。
そう分かりながら口にするぼくは、おそらく愚かしいほどのあまのじゃくなんだろう。

110 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:08:31 ID:9BaR2n0c0
彼女はぼくの弁解を聴くと何故か説教でもされているかのようにしゅん、と小さくなってしまった。
ぼくの迷走した言葉を精一杯理解しようとしてくれているからかもしれない。

もしもそうだとしたら、一切を手放しにして喜べる程度には嬉しい話だ。
それはぼくの独占欲を大いに刺戟してくれる。
そしてほんの少し、計画の失敗を晒してよかったという風に思えるのだ。

ミセ*゚ー゚)リ「もう一度きくけど」

と彼女は下を向いたまま低く息を吐くようにして言う。

ミセ*゚ー゚)リ「どうして死のうと思ったの」

( ・∀・)「……何度でも、同じように答えるしかないんだ。ぼくにだってさっぱり分からない。
      ぼくは何の挫折も孤独も感じていないし、むしろ生きていることはとても素晴らしいとも思えるよ。
      それなのに、死ななければならないんだ。死なないと、もうどうしようもない」

ミセ*゚ー゚)リ「こんな理由で……」

彼女は粗雑に遺書を取り上げる。

111 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:12:10 ID:9BaR2n0c0
( ・∀・)「そんな理由で……いや、少し違うかもしれない。
      本当はそこに書いてあることでさえ嘘っぱちなのかもしれないんだ。
 
      ぼくの理由には元々心臓にあたる部分がなかったのかもしれないし、
      だからこそこんな気持ちになっているんだとも思う。

      でも少し前から今日実行しようと思っていたのは事実だし……
      ねえ、ぼくをメンタル・クリニックへつれていくつもりはあるの」

それはぼくにとって最大の懸案事項とも言えたが、彼女は何も答えてくれず、代わりに

ミセ*゚ー゚)リ「少し前って、どれぐらい」

と言った。

( ・∀・)「一ヶ月ぐらいかな」

と返すとそう、と頷いた。予兆を感じ取られなかったことについて悲しんでいるのかもしれない。
その気持ちは分からないでもなかったが、ぼくはますます歓喜を覚えた。

彼女はぼくを愛している。そしてぼくも彼女を愛している。
ただそれだけの事実を確認できるだけで、こんなにも快感が訪れるとは。
けれど、きっとこんな確認のしかたは間違っているのだろう。

112 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:15:34 ID:9BaR2n0c0
再び重苦しい沈黙。
湿気を帯びた熱が部屋の中にまで忍び込んできているようで、滅多に汗をかかないぼくの額にも水滴が浮かぶ。
雨脚は一段と強まっているように感じられた。
 
ところで……ぼくがメンタル・クリニック行きを望んでいないのは、何もそういった施設を恐れているからではない。
むしろそこはとても居心地の良い場所であると推測できる。
カウンセラーはぼくにとって最良と思えるアドバイスと薬を与えてくれるだろう。

だから、正当な動機さえあれば受診することもやぶさかではない。

そう、問題はぼくに動機が存在しないことだ。
確かに死にたがっているというのはそれに値するのかもしれない。
しかしそれ自体が、ぼくにとって最早重大な関心事ではなくなってしまっているのだ。

ぼく自身が問題視していない症状で医者にかかるというのは……
なんだか、自由人を虜囚と見紛ってしまっているかのような違和感を覚えてしまう。
 
しかし、彼女はそう思っていないらしい。いや、誰だってそうは思わないに違いない。
だから彼女は静かに、しかし激しく泣き出した。
その涙には怒りや、哀しみや、分類できない感情の複合体が含まれているのだろう。

そしてその殆どが、ぼくのための想いだ。これはたぶん、自意識過剰ではなく客観的事実であると思う。
逆の立場であったなら、ぼくも彼女と同じ行動をとっただろう。それはぼくが彼女を十分に想っているからだ。

113 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:18:35 ID:9BaR2n0c0
ミセ*゚ー゚)リ「もし、あなたがこんなことを、本当にしてしまったとして」

馬鹿馬鹿しいことに、ぼくらを照らす灯りの隣にはまだネクタイの輪がぶら下がったままだ。

ミセ*゚ー゚)リ「わたしは何もできなかったの。わたしは、あなたが消えてしまうのを黙って見送るしかなかったの」

( ・∀・)「それは……そうかもしれない。でも、何もできないのは、ぼく自身も同じなんだ。
      ぼくだって、自分をどうすることもできない。ぼくはここで、おしまいにしなければならないんだよ」

ミセ*゚ー゚)リ「あなたは、わたしのことを考えてくれなかったの」

( ・∀・)「いや」

とぼくは即答した。
実際、椅子を蹴る際に最初に浮かんだのは彼女の顔だったし、
一人で予行演習している際にも何回も何回も彼女のことを考えた。

それでも彼女に何も告げなかったのは、こうなってしまうことが分かっていたからだ。

ミセ*゚ー゚)リ「じゃあ、どうしてわたしを置いて消えてしまうの。
      あなたは良いのかもしれないけれど……わたしの立場はどうなるの。
      わたしは、これからどうすればいいの」

114 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:21:51 ID:9BaR2n0c0
ハープを奏でているような激情だった。
外の雨音に負けてしまいそうで、しかしまっすぐにぼくへ届くほどの芯の強さを持っている。
 
彼女の投げかけた問題は――少なくともぼくにとっては――本当に難しいものだった。
だからぼくはしばらく押し黙って、それからこう答えた。

( ・∀・)「もちろん、きみのことはずっと考えていたよ。片時だって忘れたことはない。
      でも、それ以前にぼくは今回やろうとしたことを……
      きみのこととは別問題として考えようとしていたんだ。

      その二つの間には越えられない壁があって、
      そのためにぼくは、きみのことを最後までは予測できなかったんだ」

ミセ*゚ー゚)リ「へりくつだよ、そんなの……」

そればかりは認めざるを得ない。
正直、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。

ミセ*゚ー゚)リ「それじゃあ、やっぱりわたしのことなんて考えてなかったようなものじゃない。
      だって、わたしは選ばれなかったんだから」
 
そもそも論争以前の問題として、ぼくには主張がどこにも存在していない。
ぼくは実際に彼女のことを常々想っていた。それは事実だ。

その一方で、ぼくはネクタイの輪がちょうど自分の首のサイズに合うよう何度も練習を繰り返し、
馬鹿みたいな遺書まで用意した。そして実際に行為に及んだ。それも事実だ。
何もかも明白であるというのに、どうしてこんなにも息苦しいのだろう。

115 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:24:28 ID:9BaR2n0c0
一応、この人間社会に生きている限りは自らの発言に責任を持たなければならないと思う。
しかし、中身を伴わない発言にはどうしたって責任の持ちようがないのだ。
ましてやそれが嘘偽りのない心情の真相そのものだとしたら、ぼくは空っぽの自分を弁護しなければならなくなる。

その虚しさときたら。

せめて、もう少し正当に聞こえる死の理由を考えてから行動に移すべきだったのだろうか。
今となっては遅い話である。とりあえず、今日死ぬというのはちょっと始末が悪い。

( ・∀・)「だいじょうぶだよ」

だからぼくはそう言った。

( ・∀・)「もう……今日はもう、こんなことしないから。それより、早く出かけないといけないんじゃないかな。
      雨はまだ当分降り続きそうだけど……」
 
そしてぼくは立ち上がり、今度は自分の椅子を使って天井のネクタイを取り外そうとした。
途端に彼女も乱暴に立ち上がって、ぼくを見た。唇を噛みしめていた。
双眸に、明らかな怒りの色が込められている。殴られるのかと思ってぼくは少し身構えた。

116 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:28:33 ID:9BaR2n0c0
ミセ*゚ー゚)リ「出て行く」

しかし、すでに言葉で頬に痛烈なビンタを浴びせていたのはぼくの方だったらしい。
彼女の涙声には屈辱が紛れていた。

ミセ*゚ー゚)リ「わたし、もうこの家、出て行くから」

( ・∀・)「どうして」

無意識のうちに疑問が口に出る。そう問いかける権利がないことは頭のどこかで分かっている。
だからと言って引き留めずにいるのは、なおのこと悪手であるというずる賢さも。

ミセ*゚ー゚)リ「だって、あなたがわたしのことを考えてくれないんだったら、
      わたしだってあなたのことを考えたくないもの。そんなの、不公平じゃん。
 
      だからわたしは出て行くよ。もっと一緒にいたいけど、あなたが死なないといけないんだったら、
      わたしも出て行かないといけないんだよ」

横暴であるようにも感じられたが、やけに説得力のある理論だ。
そう感じられるのは、ぼくと彼女が同じ理屈の俎上にのっているからだろうか。
どちらの言葉にも、もっともらしい意味や内容は含まれていない。

しかし、ぼくにはそれこそが彼女の素直な心情の吐露であり、空っぽのぼくへの返答であるように思える。
また、事実としてぼくが死んでしまったなら、彼女としてもとてもそんな場所に住み続けていられないだろう。
首吊りが最も気楽な死に方だとはいえ、死に場所のことも考えておくべきだった。

117 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:31:23 ID:9BaR2n0c0
それにしても、彼女の言い分をこのまま認めてしまってもいいものだろうか。
身勝手な話、できれば彼女にはぼくが死んでしまうまで離別してほしくなかった。
できることなら、なるべく彼女をそばに感じたまま――それでいて密かに――たくらみを成功させたかった。

でも、それはあくまでもぼくの都合だし、こうやって全部が暴露されてしまった以上、
心の中でそっと思っておくのも無粋というものだろう。

だからぼくは、自分がしようとしていることをより確実に実行するためにも、
彼女の言葉に首肯してやるべきなのかもしれない。しかし、あまりに冷たくは無いだろうか……
いや、今になってそう考えること自体が罪であるようにも思える。

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿」

ぼくの思案は彼女の言い放った一言によって不意に現実へ揺り戻される。

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿……」

彼女はもう一度呟いた。そしてしばらく口をつぐんで、更に

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿」

と繰り返した。

そして少しだけ苦しげにうめいてから、戻ってきたときと同じように部屋を駆け出ていった。
数秒と経たず、玄関ドアがいきおいよく閉まる。ぼくはその様子をぼんやりと見送ってから、
彼女がテーブルに落とした三枚の遺書を拾い集め、ぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに放り投げた。

一度目を通されたのだからもう十分だ。書き直すこともないだろう。

118 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:35:47 ID:9BaR2n0c0
一切の出来事を遠くから眺めているような気分だった。
ぼくの感情は、死人の心電図のように少しも波立っていない。
ぼくの知らないところで、意識だけが眠っているような感じ。

映画館の最前列で、終わらないエンドロールを眺めているような気分。

彼女は少し慌ただしすぎたのではないかと思う。

ぼくに対しては、まだ説得の余地が残っていただろうし――
もっとも、彼女がぼくの強固な決心を見透かしていたとすれば話は別だが――、
着のみ着のままで部屋を飛び出すほど切迫した状況でもなかったように思う。

無論、そんな心境にまで追い込んだのは他ならぬぼく自身だから、彼女に文句をつけるのは筋違いだ。
しかしながら、さすがにあんな具合で飛び出されたのではいささか心配にもなってくる。
だいいち、彼女は財布も何もかも全部入ったハンドバッグを部屋に放置したままだ。

これでは友達に会いに行くこともできないだろうし、このまま二度と帰ってこないというわけにもいかないだろう。

ぼくはぼくの決心をひるがえすつもりはないが、それでも、うじうじとした罪悪感が湧き上がってくる。
それは一種回避行動のようなもので、自分自身を落ち着かせるための休息に過ぎない。
やはり、この場所で死ぬというのは少し考え直したほうがよさそうだ。

彼女がぼくのことをどう想い始めたかはさておき、これ以上彼女に苦痛を与えるのはさすがに良心が痛む。
そして、死ぬ時期ももう少し先に延ばしたほうがいいのかもしれない。
やはり、生きている人間が死んでいる人間に変化するときにはそれなりの面倒がつきまとうようだ。

死人が生きている人間の数倍も存在感を発揮することだって、珍しくないというのに……。

119 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:38:16 ID:9BaR2n0c0
閃光……先ほどより激しくなったような気がする。
ぼくは、彼女がおそらく傘を持たずに出ていったのだと気付いた。
黒々とした空は更に深さを増していて、まだまだやむ気配がない。雷鳴。随分と近づいてきたようだ。

ぼくの、客観的にみれば身勝手極まりない理屈で、部屋を追い出されるはめになった彼女が不憫でしかたない。
ぼくは傘を持って彼女を探しに出かけることにした。
傘は一本で構わないかとも考えたが、さすがに今の状況で相合い傘はありえないだろうと思い直して二本持つ。

彼女のハンドバッグはそのままにしておくことにした。
いずれ彼女は戻ってくるだろうし、本当に必要なものを全部揃えていたらそれこそ夜を通り越してしまう。

外に出てみると、叩きつけるような雨の勢いに改めて驚く。何かの拍子で神様が怒り狂っているかのようだ。

このどしゃ降りの中を彼女は本当に行ってしまったのだろうか。
二階建てのこのアパートには雨風をしのげる場所など廊下ぐらいしか見当たらない。
まず、ぐるりと建物のまわりを一周してみたが、彼女の姿を見つけることはできなかった。
 
それならば、どこへ行ってしまったのだろう。ぼくにはまるで見当がつかない。
いずれかのコンビニにでも入って雨宿りしているのかもしれないが、
この辺りにはそういった場所が散在しているし、もしもあてが外れていたら時間を無駄にするばかりだ。

アパートを出て右に進むべきか、左に進むべきか、それさえも判断が難しい。
とは言え、立ち止まっていても何にもならない。

120 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:41:26 ID:9BaR2n0c0
ともかく、感性のままに歩いてみることにした。まず右へ進んで、奥にあるT字路を左へ曲がる。
すると一軒目のコンビニが見つかったので何の気もない風を装って入ってみる。

案の定、とでも言うべきか、彼女はそこにいなかった。こうやってしらみつぶしにあたっていくしかないだろう。
そうやっている内に彼女のほうが先に帰ってしまっているかもしれないが、それならそれで構わない。
いや、逆に心配させてしまうだろうか。ぼくが死に場所を求めてさまよい歩いている……というように。

彼女が、ぼくの言葉の全てを等しく信用してくれていればいいのだが。
 
二軒目のコンビニにたどり着くまで、何度も前後左右を確認して彼女を探したが、
こうも雨がひどいと視界もままならない。多くの人は外出する気にもならないようで、
この辺りにしては珍しくほとんど人とすれ違わない。久々に感じる孤独。雨の中へ吸い込まれていくような息苦しさ。

この雨は止まないのではないのだろうか、という根拠のない不安感すら持ち上がってくる。
傘を二本持ってきておいて良かったと心の底から思う。一本の傘でこの雨量から二人を守るのはとても無理だ。
 
道すがら、本屋を見つけたので入ってみる。狭い店内にも彼女はいないようだ。
それどころか一人の客さえおらず、若い店員がレジのところで暇そうにあくびをしている。
傘をさしていても自分の身体は濡れてしまっているようで、ところどころから水がしたたっている。

このままでは意図せずそこらじゅうの本を水びたしにしてしまいそうだったので、ぼくは慌てて店を出た。

121 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:44:40 ID:9BaR2n0c0
彼女はぼくより遙かに濡れねずみになってしまっているに違いない。
気の毒だ、というのが正直な感想で、真摯に自分のせいだと反省することができない。

どのように想っても、対岸の火事に駆けつけようともせず、
ただ遠くのほうから水を浴びせようとあくせくしているような、無様さを覚えてしまうのだ。

彼女の言ったとおり、彼女への愛情と死の問題を分けて考え、その上で死を選択し彼女を捨てたのだから、
その無様さはもはや挽回しようもない。ならば今、こうやってかけずり回っている自分は何なのだろう。

……きっと、これは誰しもの心に起きるちょっとした善意でしかない。
ぼくが彼女のことを愛していると言ったところで、誰が信用するだろう。
信用されないということは、存在しないも同然なのだ。

本屋を出ると、相変わらず強い雨が降りしきっていた。
目の前の古い木造住宅のトタン屋根に雨粒が刺さって、せわしなく不協和音を奏でている。

なんだかひどく疲れていた。

122 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:47:40 ID:9BaR2n0c0
ここからの行き先の候補として幾つか思い浮かぶが、そのどれを取っても彼女がいる気がしなかった。
もしや、彼女はこの雨と一緒に溶けてどこかへ流れていってしまったのではないだろうか。
そうであってもおかしくない気がした。

そして、もしそうだとしたら、ぼくみたいな人間にはもう追いかけることもできない。傘だって無駄になる。
 
それでも、ぼくは歩き出さなければならなかった。
彼女を探し続けるにしても、早々に引き上げてしまうにしても、立ち止まってはいられない。
何があろうと、前には進まなければならないのだ。そんなことは分かっている。

分かっていたからこそ、今日という日に向けて着々と準備してこられたのだ。
彼女にさえ見つからなければ……。
 
いや、そんな名残惜しさに浸っている場合ではない。ぼくは傘をさすために少し上を向いた。
その瞬間、視線の先を光が斜め下へ走った。稲妻だ。続いて鼓膜をつんざく爆音。

先ほどまでとは比べものにならない音の大きさに、ぼくは思わず悲鳴をあげそうになっていた。
外に出たのだから大きく聞こえるのは当然の話なのだが、それでもぼくは必要以上に驚愕していた。

しばらくその場を動けずに足を震わせていた。
それからようやく、何事もなかったかのような顔で傘をさして歩き出すことができた。
ぼくはたぶん、空襲の時に逃げおおせることもできずに死んでしまうのだろうな、などとつまらないことを考える。

それぐらい頭が混乱していた。脳みその奥底で、まだ雷鳴が反響していた。

123 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:50:16 ID:9BaR2n0c0
それにしても稲妻をじかに見たのはいつ以来だろう……もしかしたら初めての体験かもしれない。
その一瞬の出来事は脳裏にしっかりと焼き付いているのだが、
その衝撃を説明しろと言われてもたぶん何一つ伝えられないだろう。

雷を怖がる人が多いというのも分かる気がする。
よく分からない恐怖というよりは、はっきりと目撃することによる畏怖。
科学的な原理も解明されているはずなのに、人間の手ではどうすることもできない自然の偉大さ。

そしてそれだけではなく、個人的な恐怖心を刺戟する何かがある。

ぼくの足取りは明らかに重くなっていた。落雷のために疲労は倍増していて、
そのせいかいっそう孤独感が深まっていく。薄ぼんやりと浮き上がっているような街路は、
進むにつれて迷宮の様相を呈してきた。こんな天気の下で出ていった彼女は相当強い女性なのだろう。

もちろん、ぼくが弱すぎるという可能性も否定できないが。

いや、もしかしたらぼくが見落としていただけで、彼女は意外と近所で雑誌でも立ち読みしているのかもしれない。
もちろん、そうであって欲しいという希望的観測も含まれる。
辛うじて持ち合わせていた小銭で買った切符で遠くへ行かれてしまったのであったら、もうどうしようもない。

二軒目のコンビニも不発に終わり、ぼくは更に進み続けた。
もう、どこを歩いているのかはっきりしなくなってきている。
おぼつかない足取りで家の壁だけを目で追いながら前進する。自分の目的が何かも忘れてしまいそうだ。

傘はもうほとんど役に立っていないようで、全身から雨のにおいが蒸気のように湧き上がっていた。
雨粒か自分の汗かも分からない顔の水滴をぬぐい、ようやくたどりついた曲がり角で向きを変える。

124 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:53:21 ID:9BaR2n0c0
ともすれば不快な眠りに落ちてしまいそうな頭の上で再び光と音が放たれた。
ぼくは誰かに一喝されたかのように身体をまっすぐに硬直させ、そのままの姿勢で歩き出した。
ぼくは雨の息苦しさよりも、時折訪れる雷の激烈さに戦慄していた。

何故こんなにも雷に責められているような気分になるのか分からない。
ただ、その攻撃は泣き出したくなるくらいにおそろしかった。

そう……純粋に考えればおかしな話である。何もぼくは、雷鳴を怖がる必要なんてないはずなのだ。
本来なら、ぼくはもう既に死んでいる身なのだから。あの部屋の、あの吊照明の、あのネクタイ――
それはまだ、孤独にぶら下がっているはずだ――によって。

そのぼくが雷に挫かれるなど、本来なら不可思議でしかない。
にも関わらず、ぼくはこれ以上雷が落ちないことを願っている。
できればこの雨と共にさっさとどこかへ消え去ってほしいと切望している……。

何かのはずみで雷がぼくの真上に落ちてきたら、ぼくは呆気なく死んでしまうか。
そうでなくても意識不明の重体ぐらいには追い込まれてしまうのだろう。もしかして、ぼくはそれが怖いのだろうか。
首吊りによる死を望んではいても、落雷による死は本望ではないのかもしれない。

結果としては変わらないというのに、ぼくはあくまでも形式に拘っているのかもしれない。
では、形式としての死を求めているのであれば、ぼくは本来的には死を望んでいないのではないか。

だが、近いうちにぼくは死ななければならない。それだけは確かだ。
何故か。そんなことは分からない。分からないなら死ななくてもいいじゃないか。
死ぬだけの勇気があるなら、生きていけるはずだ。

125 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 21:57:08 ID:9BaR2n0c0
……いや、違う。死ぬ元気と生きる元気は根本的に異なっているのだ。
その二つは、まったくもって別問題なんだ……そう、まるで彼女への愛情と同じように。
そしてぼくには、死ぬ元気を上回るだけの生きる元気が存在していなかった。

死ぬ元気を出して、こうして無闇に生き続けているのをやめるなら、死ぬのが道理じゃないか……。

ふと我に返ると目の前に広々とした川が横たわっていた。
どうやら、気付かない間に川沿いの道にまで来てしまっていたらしい。
増水した川の流れは普段に比べて速く、濁っていた。

そしてぼくはふと――すくみ上がってしまった。
雷鳴の響いている時に広い場所に出るのは危険だという小学生でも知っている知識を思い返したからである。

それにしても先ほど思い出していたのは……そう、ぼくが書いた下らない遺書の内容とほとんど同一だった。
たったあれだけの動機を、ぼくは目いっぱい拡大して三枚にも膨らませたのだ。

内容と呼べるほどの内容は一つもなく、
ただ素朴に死ななければならないという事実を淡々と書き並べただけにすぎない。
遺書というよりは、検死調書とでも言うべきだっただろうか……。

126 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 22:00:20 ID:9BaR2n0c0
そもそもぼくが何故死にたくなってしまったのか、それに値する理由などいくら考えても出てこなかった。
ただぼくは死にたかった。死ななければならないと盲信していた。

例えば高校生が卒業すれば大学か就職かに進路を定めなければならないのと同じように、
ぼくはぼくの人生において、次の行動を選択しただけなのだ。そう、いずれにせよ前には進まなければならない。
進まずとも、人生はあらゆる濁りを含めて流れていってしまう。その流れは深く、目まぐるしいほど速い……。

選ばなかった道を惜しむのは儚いことだ。だからぼくは彼女に何も告げなかった。
生きることと死ぬことは、同じ人間の身に起きる話なのに互いに相反している。

少しでも残っている「生きたい」という希望の残渣を捨てるためにも、
「死ななければならない」という響きはとても魅力的だった。だからぼくはその言葉に執心した。
生きていることは強制されるべきことじゃない。

それが必要でなくなったなら、或いは必要性が薄れていると感じたなら、自ら死んでしまっても構わないのだ。
そう信じてぼくはあらゆる努力を惜しまなかったつもりだ。

だが、雷鳴はそんなぼくの選択肢を根こそぎ奪い取ってしまった。
ぼくが今まさに感じているのは……紛れもない死への恐怖心だった。
雷撃で散る程度の命を、ぼくはまだ吹き消してしまいたくないと思ってしまったのだ。

そう、だからぼくは死にたくない。死ななければならないが、死にたくないのだ。なんという矛盾だろう。
生きる元気などは既に枯渇してしまっているのに、死ぬ元気さえ無理矢理そぎ落とされてしまった。
そして、その二つの井戸は重厚な蓋で閉ざされてしまい、二度と水が注がれることはない。

ぼくは、真の意味で空っぽになってしまったのだ。

127 : ◆xh7i0CWaMo :2014/09/30(火) 22:03:20 ID:9BaR2n0c0
考えるのをやめてしまいたい意志とは逆行して、ぼくの頭は無意味に覚醒していた。
あらゆる物事を並行して思考している。生きていることも、死ぬことも、何もかもを考えていた。
全身が、今にもはちきれそうなほど軋んでいる気がした。

全部が無駄だった。死を考えることさえ、苦痛でたまらなくなっていた。
結局のところ、色々と難癖をつけて死を回避しようとしているようにしか見えない自分自身があまりにも疎ましかった。
そう、できることなら雷鳴など耳に入れることなく、死という選択肢を完遂してしまいたかった。

それだけで、よかったのだ。

そして雷鳴が響いた。ぼくは辺りにかまわず叫んでいた。
ここにも、彼女の姿は見当たらない。









5.ちぎれた手紙のハレーション