【感想】そして、永訣の朝をこえる

俺たちが、他人のためにできることは何だろう。
俺たちが、死者のためにできることは何だろう。
そんな一生の命題に向き合って、勝手に何かを背負い生きていこうとすることこそ、人間の業の深さなのかもしれない。

本作「そして、永訣の朝をこえる」は、主人公ミセリが生まれつき病弱である義妹のトソンのために自分にできることとは何なのか、
十年背負い続けた葛藤とその決別の物語である。
宮沢賢治が最愛の妹トシを病気で亡くしてしまう、その日の朝を詩に書いた「永訣の朝」、
奇しくもそれになぞらえるように最愛の妹トソンを失ったミセリは、中原中也の詩「春日狂想」、その冒頭一節に支配される。

「愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。」

これまで何もしてやることができなかった、最後に自分ができることは、妹を想って自殺すること。
そんな自責の念と、希望を失った投げやりな心とが、ない交ぜになって物語に暗い影を落とす。
決意を携えて屋上に登った巻頭のワンシーンが最後まで緊張を忘れさせない。

初めて病室でこの詩を見つけ、誰のために私は死ぬのか、それを考えてパッとトソンの顔が浮かぶミセリは、
詩の続きを読む前から既に「奉仕の気持ちにならなきゃいけない」ということに囚われているように感じないだろうか。

昔、トソンを外に連れ出して、病気を悪化させてしまったこと。
手にミトンを嵌めさせたせいで、それが本当のトソンの幸せになっていないと気づいたこと。
何かしてやれることはないかと探す度に、それが逆の結果を招いてしまう。

「心強い姉として」そんなミセリの行動原理は、いつしか別の何かにすげ変わっていることに本人さえ気づかない。
そうして最後に残された自殺という方法が美徳に見えてしまうのが、何とも残酷で、もどかしい。


ここで一つ思う。トソンはミセリの「奉仕の気持ち」に当然気づいていただろうと。
じゃなきゃ、雪を食べたいという、ミセリにしか分からない最後のお願いを今わの際でつぶやくだろうか。

―――「あめゆじゅとてちてけんじゃ(雨雪取ってきてちょうだい)」
病床に伏せるトシが賢治に頼み事をする「永訣の朝」とリンクする。
これには、妹のため何かしてあげられることはないかと苦しむ賢治にささやかな願いを叶えさせて、
少しでもその苦しみを和らげようとしたトシの心遣いが含まれている節がある。

薄弱していく意識の中、トソンにそんな機転の利かせ方ができたかどうかは分からない。
分からないし、下記もすべて憶測でしかない。

たぶん、トソンはミセリにずっと、最初に出会ったあの日の、感謝と慰めをしたかったのだろうと思う。
外に連れ出してくれた、普通の子どもとして対等に遊んでくれたことへの感謝。
それが原因で病状が悪化してしまったという、ミセリの悔恨の念への許容の意。
お姉ちゃんがやったことは、私にとって決して間違ったことではなかったんだよという溜め込んでいた想いが、
ミセリへ最後に伝えておかなければならないメッセージだったのかもしれない……。


……しかし、その後もミセリの頭の中では中原中也がこだまする。
トソンが死んだ実感が沸かない、葬儀が終わってなお泣くこともできない、
何より、最後まで何もしてあげられなかった無力感。
ミセリにとっては、自分も死んで決着を着けるしか弔いの方法が見つけられずにいた。

そんな折見つかるプリクラと、その裏に書かれた直筆の文字。
意味を理解したミセリは自殺をやめ、屋上に写真を燃やしに行く。


―――ここでまた宮沢賢治の話に移る。
賢治はトシを亡くした後、その葬儀に参列することはなかったそうだ。
父親と宗教の違いから、仲違いをしていたらしい。
出棺の際に路上に現れてともに棺を運び、火葬場では棺が燃えつきるまで読経して、遺骨は分骨されたとある。
もっと上手く弔ってやれたのではないか、そんな後悔が後の彼の作品、「銀河鉄道の夜」などに影響を与えているという……。


ミセリは屋上に写真を燃やしに行く。
トソンを自分なりに弔うために。
泣けなかった葬儀で終わらせないため、そして死にたがりの自分への決別を込めて。

「わたしはこれから、わたしの人生を生きなければならない。」
ようやくわかったよと伝えるために、天国に近い、なるべく高い場所を選んで。
奉仕の気持ちはようやく終わって、あるいはまた、今度は自分のために、始まっていくのかもしれませんね……。


「永訣の朝」と「春日狂想」、ふたつの名作を組み合わせ、新しいものへと昇華させた傑作。
宮沢賢治の描きだした普遍性を現代へ訳して語る作者の手腕にただただ脱帽するのみである。



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