【感想】独白のようです

『クソシャバいドグラ・マグラ』と聞いて、へーん、面白そうと真っ先に手を出してみた。
語るには不勉強ながらもドグラ・マグラは昔途中まで読んだことがある。
途中までというのは案の定、挫折したという意味である。
例のキチガイ歌に差し掛かったところで「え、これ何ページ続くの?」とペラペラやってみたらアホほど長い、そこで投げた。
これはもう読まんだろうなと解説文を漁ったものの、なるほどわからんで終わったのだけが印象に残っている。

なんとなくの雰囲気だけは記憶におぼろ気で、「ああそう、こんな感じだった」と彼の作品を思い出しながら本作を読み進める。

「…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。」
というドグラ・マグラの、この音から始まる出だしはあまりにも有名だ。
「独白のようです」本書も、”私”が廊下を歩く音を耳で聞き取っているシーンから始まる。
病室の鉄柵も、精神患者を話の主軸に置く趣向もオマージュが込められていて、面白い。
まるでこの短編を読んでしまえさえすれば、あの怪奇小説を読破した気にさせてくれる、なんて期待をしてしまう。

”私”は精神科医だという。
私宅監置とは座敷牢での監禁と同義らしく、その訪問医としてドクオを訪ねたみたいだ。
誰もが疑問に思うだろう。あれ、ここは病院じゃなかったのか。
牢の向こうには重い鉄扉、長く続く廊下、看護婦までいるのに。

そんな矛盾がさも当たり前かのように物語は進行していく。
妄言と発狂が止まらない患者、それに黙って耳を傾けるだけの医者。
しかしふと、静かになったドクオの妄言が現実味を帯び始める。
見えるはずのないボタンが見え、正気と狂気が入れ替わったかのように医者がドクオの首をしぼる。
気が付くと判然としない状況に取り残され、ラストは意味ありげな冒頭のリフレイン……。

一回読んだだけじゃどうにも辻褄が合わないことだらけだが、自分なりに読み解いた結論から話してみようと思う。


『”私”という人物はドクオの妄想から生まれた人格である。
そして、”私”という人格が一人歩きして、全くの他人として自分自身を見ているのだ。』


ちょっとややこしいが、ひとつずつ紐解いていこう。

まずは”私”とドクオの関係性について。
”私”とドクオは同一人物だ、と言いきっていいと思う。
「独白のようです」というタイトルを思い出せば自然と辿り着く結論だ。
つまるところ、二重人格と言い換えてもいい。
ただし我々がよく想起する二重人格とは少し違う、完全に別の個体としてそれぞれ存在しているふうに描写されている。
この状況を説明する言葉がドグラ・マグラには登場する。

「離魂病」
これは主人公が窓外にてもう一人の自分自身を見つけてしまったとき、いわばドッペルゲンガーを説明した言葉だ。
君は今、人間の五感に関する部分は目覚めていても、過去に関する記憶を呼び返す部分は夢うつつの状態にある。
だからもう一人の自分の正体とは、記憶の中から現われた過去の映像なんだよ、といった具合だ。

つまりこの「離魂病」を本作の状況に当てはめると、
”私”とドクオのどちらかは、片方が頭の中で作り出した虚像にすぎないということだ。
一体どちらが人間としての実体を持っていて、どちらが空想上の人物なのか。
そのヒントは意外にも冒頭にある。

「音は事象の証明だ。私は今、廊下を歩いていることを耳で確認している。」

この文章、逆説的に「音でしか自分の存在を証明することができない」と捉えられないだろうか。
つまり医者である”私”には肉体がないと言い換えることができそうだ。
更に補足すれば、”私”にだけAAが割り振られていないことが肉体を持っていないことに繋がるというメタ的裏付けもある。

ここまでで、『”私”という人物はドクオの妄想から生まれた人格である。』そしてそれは虚像なのだという説明が付いたと思う。


そして後半の『”私”という人格が一人歩きして、全くの他人として自分自身を見ている。』についてだが、
これについては「そうじゃなきゃ説明が付かない」からと言うほかない。

ドクオが「俺と先生は最初から一つ」と分かったような口ぶりなのに対して、”私”はそうは思っていないことも、
”私”が気絶した後、残されていた手帳も、最初から鉄柵の中に入っていたとしか考えられない状況も、
むしろ「そうあったほうが説明が付く」とまで言えてしまえるように思う。

ここまでのことを踏まえて、そして後半部について補足の意味合いも含めて、
一つこうだったんじゃないかというストーリーを作り上げてみたので書いてみよう。


……精神を病んでいたドクオは救われたかった。
しかし牢の中の孤独な自分を救える希望は当然自分自身にしかなかった。
だから妄想の中で精神科医の格好をした自分を生み出したのだ。
自分が自分をカウンセリングする形で心の安らぎを得ようとしたのかもしれない。
(ここで重要なのは、患者は自分をドクオだと思っているが、医者は自分をドクオだと思っていないことだ。)

医者の立場からしてみれば、こいつはなんて哀れなんだと思っただろう。
やってやれることといえば話を聞くだけで、それで落ち着くことはあっても回復の見込みがないことは火を見るより明らかだ。

患者の立場からしてみれば、医者のことを不憫だと思っただろう。
何も手の施しようがないことは自分が一番分かっている。
そんな自分のために、医者である”私”をいつまでも縛り付けておくのが耐えられない。
だから患者である「ドクオという人格」がいなくなれば全て終わると思って、そのためのボタンを押したのだ。

現実には、「ドクオという人格」がいなくなれば「医者である”私”の人格」だけが残され、それはドクオの肉体へ帰属することとなる。
そして医者というのは患者がいなきゃ成り立たない。
自分専属の精神科医は唯一の存在意義が失われ、「本来自分だったもの」が死んだことすら気づいていない。
残されたのは”私”=ドクオという図式を表す手記と牢の中の自分という状況のみ。
それを認められない”私”は日に日にかつてのドクオに近づいていき、次なる”私”という医者を生み出していく……。


以上。
という感じで、つまり無限ループが発生しているんじゃないかと推測する。
医者と患者、自分と自分が無限に入れ替わっていってるんじゃないかと考えると、作者の思惑の外で勝手にゾクゾクしてしまった。
そんなゾクゾクを煽る文体がまた怖くて、歪なガラス細工に一つ、また一つとヒビが入っていくかのような緊迫感があった。


この使用したイラスト見たときに、自分で首を絞めているようにも見えるけど、
他人から絞められているようにも見えるよな、と思ってました。
作中での直接の表現は無かったけど、”私”がドクオの首を締め上げるときにもう一度、
このイラストが思い返されて、ああ~なるほど~と一人で満足してた。
そんなわけで、イラストを組み合わせた作品としてみても、とても魅せてくれた作品だったと思います。



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