水底のブランコ

376 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:09:18 ID:8TNFxtZk0
12.水底のブランコ

※ ※ ※

ある朝、目覚めてみると僕の隣で僕の人生が死んでいた。
 
それはまるで等身大の抱き枕の様相だ。人肌のように柔らかく、しかし存在そのものは曖昧である。
のっぺりとしていてやや不気味ではあるが、思っていたほどの有機物らしさはなかった。
恐らくこの中には僕の……プロフィールや容貌、憂鬱といったものが詰め込まれているのだろう。
 
そういうものが死んでいた。
或いは、僕本体と分離してしまい、酸素循環が上手くいかなくなった結果なのかもしれない。

僕は何とも言えぬ憐憫の感情でそれを抱きしめた……それは当然のことだろう。
曖昧模糊としたその存在は、ほんの少し前まで、
間違いなく僕と寄り添っていた唯一無二のパートナーだったのだから。

だがやはり温もりは失われ……時と共に少しずつ固まっていっているようでもあった。
それは本質的な遺体と同様に……もはやどうしようもないものなのだ。
僕はたまらなくなって、傍らに転がっていたウイスキーのボトルを開ける。

377 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:12:04 ID:8TNFxtZk0
半分ほど空にしたところでようやく落ち着きを取り戻す。
どうやらこれは現実で、悪夢の類いではないらしい。

いや……考え直してみれば、むしろ事態は最高の好機と言えるのではないだろうか? 
何しろ僕は先行きへの不安に日がな一日苛まれ、
ここ最近は少しも生きた心地がしなかったのだから……。
 
僕はすっかり筋肉の衰えた上体を起こす……と、そこで初めて体感的な異変に気付いた。
妙に身軽なのである。肩をぐるりと回してみた……
まるで今までに蓄積していた疲労が霧消してしまったかのように快適だ。

ここに至ってようやく、僕は自分が人生という重荷を下ろしたという実感を得たのかもしれない。

もしかしたら昨日まで僕がかかずらっていた偏頭痛や慢性の鼻炎ともお別れできたのだろうか。
それらは、僕の身に当たり前のようにのし掛かっていた病だった。
だからだろうか、取り除かれた喜びというものはいまいち湧いてこない。
 
しかし、悪くない。悪くない……ある種の爬虫類や昆虫の脱皮とはこのような気分なのだろうか。
とにかく、何とも満たされた感じだ。
身体中を巡っていた汚泥が、すっかり透明な水に取り替えられたかのように。

378 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:15:07 ID:8TNFxtZk0
浮き足だった気分で辺りを見渡す。
見慣れた景色に新鮮さをもたらす効能は無いようだが、
代わりに一枚の紙片が机の引き出しからはみ出しているのを発見した。

二十年近く僕の人生に……乃至は僕の居住範囲に堂々と居座っていた、
ひとり分にしてはやや広めの机。引っかき回したら何が出てくるか知れたものではない。
僕の抱えてきた喜怒哀楽を、少なくとも半分くらいは木製の躯に吸収してきたのではあるまいか……。
 
目に付いた紙片はどうやらノートの切れ端のようである。
粗雑に千切られたそれは、しかし確実に目に付くよう、机の隙間に挟み込まれていた。

むろん、僕にその紙片に関する記憶はない。
持ち合わせているとすれば、布団の上に横たわっている人生の方だろう。
もしかしたらそれは、僕の人生による遺書であるのかもしれない。

その真相は僕にはわかり得ないだろうか? 
……いや、いずれその紙片が僕を誘惑していることだけは間違いのない事実だ。
手にとって見ると、そこにはあまり達筆とは言えない字でこのように書かれていた。

『古来、最も美しき自殺の作法は入水によるものと決まっている。
 幸いにもN市S地区界隈に、昨今のダム工事の影響で水底深くへ沈んだ無人の村があるのだ。
 そこには、君と密接に繋がる舞台が用意されていることだろう……。

 以下にS地区の地図を記す――』

379 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:18:10 ID:8TNFxtZk0
なかなかどうして、居丈高な文章じゃないか。
僕は感心する一方でほくそ笑んでいたりもする。

たった四行の短い手紙……『君』という指示代名詞が、
僕を示唆していることは言及するまでもないだろう……は断定に始まり、
指令書を模したような口調で締められている。

僕の自由な行動を促す文章でないことぐらいは、誰にだって分かるだろう。
つまり……人生というやつが僕の中に存在する身分制度の、
どのあたりに位置していたかをよく表現した手紙だ。
 
改めて振り返り、人生の遺骸を眺めてみる。

口下手な人生は僕自身に自殺を強要しながらも、
無闇に迷わぬよう道しるべを用意してくれていたというわけだ……
なんとも健気なエピソードじゃないか……。
 
文中にある『S地区の地図』は手紙の最下部に糊付けされていた。
これもまた、どこかの地図帳から引き裂いてきたような感じ。
手紙の雰囲気を壊さないためには必要な演出であると言える。

ただしその演出が親切さを兼ねているかと問われれば微妙なところだ。
どうやら相当古い地図帳の切れ端らしく、ところどころの文字が擦れて読めなくなってしまっている。

そもそも、田舎の地区割りが大雑把であるという御多分に漏れず、
S地区自体が広大な土地であるようなのだ。

あまつさえ、地図には具体的な目的地が記されていない。
意図の有無に関係なく、どうやら僕は人生が送り出した最期の指示に苦労させられることになりそうだ。

380 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:21:10 ID:8TNFxtZk0
いやいや、別の角度から考察するべきだ……。
そもそも配慮の行き届いた人生を共にしていたならば、自己嫌悪に陥ることもなかったはずである。

僕の人生にしては、精一杯の努力を注いだということで納得しようじゃないか。
心意気だけは、十分に伝わってくるのだから。何より、時間はたっぷりとある。
自分との対話において、急いて事をし損じるのはあまりにも滑稽な話……。
 
この時点で既に僕は手紙の内容を九分九厘信じ込んでいたし、またその話に乗っかるつもりでいた。
自殺の方法書に従うなんて、考えてみれば大それた計画かもしれない。

しかし、現在の僕は特段の恐怖や不安、もしくは解放感というものを覚えていなかった。
そういうことをいちいち思い煩うのは人生の仕事だった……他人の監視に怯えながら、
心情を慮りながら常に自由意思を阻害されてきた人生の。

その懊悩から抜け出した僕はむしろ、新しい興奮と期待に包まれながら、
人生の遺言を遂行しようとしているのだ。誰に理解されなくとも構わない、
そんな暗示じみた自負が僕を突き動かそうとしていた。
 
他方、泡沫のように淡い、しかし確かな疑問符が徐々に膨れ上がっていた。
それは、おおまかに言えばS地区に関する疑問である。

僕は嘗て、S地区に足を踏み入れたことがあっただろうか……もしくは、
何らかの関係を持ったのだろうか。少なくとも、懐郷の念が湧いてこないことだけは確かだった。
その土地と、僕の間に遺伝的繋がりはないらしい。

ならば何故、僕の人生は僕をそこへ向かわせようとするのだろうか……。

381 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:24:02 ID:8TNFxtZk0
とは言え、それは考えられる限り最も馬鹿馬鹿しい懸念だった。
今更、自分自身を疑わなければならない理由がどこにある? 

誰しもにとって最大の宗教は自身の内側から発せられる意識であり、またそうあるべきなのだ。
ましてや、そこには人生経験という重みが伴ってさえいるのだから。
 
僕は疑問を振り払うかの如く、早速行動をとることにした。
二十一グラムのように身軽になった身体で石飛びみたいにステップしながら玄関へ行く。

携えるものは件の手紙だけだ。S地区はN市の最北の、奥まった場所にあり、
僕の知る限りそこへ直行できる公共の交通機関は存在しない。
昨日までの僕ならば、自分の体重を苦にして辿り着くことにさえ挫折してしまっていただろう。

けれど今は別だ……少し底の厚い靴を履き、ただ足を伸ばすだけで到達できそうな気さえした。
物理的な距離感など、所詮はその程度のものなのだ。
ややこしい重しさえ外せば僕らはどこまででも行ける……そう、どこまででも。
 
ドアを開けた瞬間、未だに横臥し続けているであろう人生の遺体が一瞬脳裏をよぎった。
彼を……他ならぬ自己の一部分を三人称で呼称するのもおかしな具合だが……
あのまま放置しておいてもよいものだろうか? 

僕から乖離したとは言え僕そのものには変わりがない。
皮肉を交えてみせるならば、他人の目から見れば僕よりも僕の人生の方が、
遙かに僕としてのアイデンティティーを備えているようにさえ思われるだろう。

そんな、僕という存在の証明書であった彼を易々と置き去ってしまうというのは、
一種罪深い行為ではあるまいか……。

382 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:27:11 ID:8TNFxtZk0
しかしながら僕は、すぐさまその悲観を捨ててしまうことにした。
この期に及んで人生に気を遣っても仕方がない。

まさか、自分と同じ背丈を持つ彼を抱きかかえて出歩くわけにもいかないだろう。
とんだお笑いぐさじゃないか……まるで、自分のことをいつまでも忘れられない幽霊みたいでさ……。

彼にしたって、死んでまでそんな羞恥に晒されたくもないだろう。
僕の人生は、然るべき場所へ葬られるべきなのだ。然るべき場所……すなわち、布団の上へ。
 
部屋を出た僕はまず、自分の取るべき進路を見定めなければならなかったが、これが案外と手間取った。

歩き出すにしても、入り組んだ住宅街では東西南北さえ判然としない。
普段通う場所ならば意識せずとも勝手に足が動き出すものだ。
コンビニエンスストアや薬局、明日にも店じまいしてしまいそうな、ほこりっぽい古書店……。
 
手元にある地図はあくまでも『S地区の地図』である。
出発から到着までの道のりをナビゲートしてくれるものではないのだ。

僕は目を細めてその地図をつくづく見詰めてみる。住居の少ない村の全容が描かれている。
あぜ道や水路の様子が妙に生々しく映った。指でなぞると土の匂いに噎せ返ってしまいそうだ。
村から余所へ移動するための道が東西に伸びていて、それぞれが地図の両端で途切れている。

周りを囲むのは深い森林……いや、深いというのはあくまでも僕のイメージに過ぎないのだが。
それにしても奇妙だ。
その地図に向けて足を踏み出せば吸い込まれてしまいそうなほどのリアリティが、胸に迫ってくる……。

383 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:30:42 ID:8TNFxtZk0
結句、頼りない地図であることには間違いない。
だいいち、手紙の記述が無ければこの地図が本当に『S地区の地図』なのかどうか、
判断さえできないのだ。これでは躊躇ってしまうのも無理のない話だろう。
 
上空を仰ぐと、いかにも重たそうな灰色の雲が垂れている。
ところどころから陽が射し込んでいるが、いつまで天気がもつか怪しいものだ。

出来れば雨が降ってくるまでに事を済ませてしまいたい。
身軽になった代償に、水溶性の肉体になっているという可能性も、決してゼロではないのだから。
 
そんな、寓話じみた考えを巡らせていると、近くでル、ル、ルとエンジン音が鳴っていることに気付いた。
いつの間にか、僕の前に真っ白い自動車が停まって車体を震わせている。
何らかの反応を示す暇も無く窓が開き始め、中から女が顔を覗かせた。

(*゚ー゚)「困っているみたいね」
 
僕は応答することを忘れ、ただただ彼女を見入ってしまった。
運転席から顔を出したのは、他ならぬ少女なのである。
一般常識の観点に立てば、十五、六と目されるはずだ。

小人症の類いだろうか? いや、その割には健康そうな体つきをしている。
しかし、大人と呼べるほどに発達しているようにはとても見えない……。
 
少女の興味深そうな笑顔が、眉間に皺を寄せていくことに気付き、僕は狼狽えながら返事を探し始めた。

384 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:33:12 ID:8TNFxtZk0
( ・∀・)「ああ、うん。困ってる……。
      つまり、行きたい場所があるんだけど、どうも行き方がわからないんだ」

(*゚ー゚)「何それ、記憶喪失?」

( ・∀・)「似たようなものかもしれないな。大雑把な目的地は決まっているみたいで」

(*゚ー゚)「携帯で調べられないの?」
 
そう問われて初めて、自分が外出の際の必需品を全て置いてきてしまったことに気付いた。
何しろ導かれたような気分で飛び出してきたのだ。気を配っている暇なんか無かった。

だが、その事実をそのまま少女に告白するのは何となく屈辱的で、
僕は無意識に詭弁を弄するのだった。

( ・∀・)「それが……最近、工事で水没した無人の村でね。検索の仕方がいまいちわからないんだ。
      たぶんまだ、新しい名前も決まっていないだろうし」

(*゚ー゚)「だいたいの見当は付いているのね」

( ・∀・)「S地区と言って……」

386 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:36:43 ID:8TNFxtZk0
僕は手紙を渡そうとして……慌ててその手を引き戻した。そこに載っているのは地図だけではない。
幾つかの不穏な単語……自殺や、入水といった言葉が盛り込まれているのだ。
必ずしも他人に見られて気持ちの良いものではないし、相手を不用意にまごつかせてしまうだけだろう。
 
そんな僕の心情は、幸いにも読み取られなかったらしく、
彼女は数度首肯して溌剌とした……いかにも少女らしい笑みを見せた。

(*゚ー゚)「S地区なら分かるわ。よく近くまで行くから」

そして、彼女は思わぬ提案をしてきたのである。

(*゚ー゚)「何なら、つれていってあげてもいいけど」
 
僕は驚嘆の面持ちをせずにはいられなかった……、
そして同時に、奥底の方で潜んでいたある疑惑を呼び寄せてきたのである。

どうも、こいつは随分出来すぎた成り行きではあるまいか。
僕が目覚めてからの一連の流れは、まるで路地裏の洋服屋の仕事みたいに仕上げられている。
とは言え、半分は僕自身の仕業だ。では、僕は自伝の上を歩かされているのか……そんな馬鹿な……。

彼女の提案を、僕は固辞するべきだった。無駄のない流れに棹さすことほど不気味なものはない……。
人生から与えられた仕事を、どれだけ時間がかかっても、迷い惑いながらでも独りで全うした方がいい。
それは、僕が経験則から得た知識でもあった。

387 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:39:22 ID:8TNFxtZk0
にも関わらず僕は彼女の提案に乗っかる腹づもりでいた。
この期に及んで秘匿しても仕方あるまい、率直に自白するならば僕は彼女の提案に……
或いは彼女そのものに……抗しがたい魅力を覚えていたのだ。殆ど衝動にも似た感情である。

仮に彼女が地獄への水先案内人だったとしても、僕は拒絶しきれなかっただろう。
もっとも、その末期には恐ろしいほどの後悔が待ち受けているのだろうが……。
 
いやいや、所詮そんなものさ。たとえ無人の恐怖に苛まれると分かっていても、
こんな世の中なら『どくさいスイッチ』を押した方がいい、そうに決まっている……。
 
とても他人には打ち明けられないような理論武装で自分を固め、
僕は二つ返事で彼女の車に乗り込んだ。真っ白い車はゆっくりと滑り出す。

背後へ流れていく景色が、子どもの扱った消しゴムの消し跡みたいに、
粗雑な感じで掻き消えていく……。

※ ※ ※

388 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:42:04 ID:8TNFxtZk0
少女が僕を招き入れた場所は後部座席ではなく、助手席だった。
自己弁護する蓋然性も見当たらないが、
僕は必然的に……彼女の一挙手一投足を観察する羽目になった。
 
傍目から見ても、少女はやはり少女である……どこか骨張った肉付き、
第二次性徴を終えたとはとても思えない、しなやかな矮躯。
ハンドルを握る手も幼げで、何となく危なっかしい。

しかし運転技術は確かなようで、車体を細く狭い路地にスムーズに縫い込ませていく。
興奮しているわけでもないのに爛々と輝く双眸、シャツから少しだけ覗いている焦れったい鎖骨……。
 
変に浮ついた気分だ。
嘔吐するわけでもないのに、身体の中身が持ち上げられているような、そんな感じ。
僕はちょっと緊張した手つきで窓の開閉ボタンを押す。

(*゚ー゚)「酔いやすいの?」

( ・∀・)「いや、昔に一度吐いたことがあるぐらい……そう言えば、最近はめっきり車に乗っていないな」

(*゚ー゚)「もうすぐ国道に出て、そこからは一本道。我慢できるでしょ」

389 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:45:12 ID:8TNFxtZk0
少女はやけに大人びた……というよりは、まるで僕を子ども扱いしているような口調で笑いかけてくる。
不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、そういった立ち振る舞いこそが彼女なりの処世術なのかもしれない。
 
年齢に関して、少女に直接問いかけるのはやはり躊躇われる。
何らかの端緒に指先がかかればいいのだが、
彼女の自然な言動が推理の余地を挟み込ませてくれない。

そもそも……彼女の正体へ肉薄したところで何になる? まるで公権力の押し入りじゃないか。
止した方がいい、公権力だなんて、言葉を思い浮かべるだけで怖気が走るよ……。

(*゚ー゚)「退屈だったら音楽でもかけましょうか……貴方の趣味にあうか分からないけど」

( ・∀・)「音楽は普段からあまり聴かないんだ。小説を書くとき以外はね」

(*゚ー゚)「小説?」

( ・∀・)「僕は小説を書いていたんだ」

390 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:48:20 ID:8TNFxtZk0
目の前が開けた。目の前の信号機がLEDの光を放っている……
おそらく、最近建てられたものなのだろう。

ガソリンスタンドのレギュラー価格が視界の左端でしつこく点滅する。
少女は車を右折させると、アクセルペダルを少し深く踏み込んだ。

(*゚ー゚)「作家先生だったのね」

( ・∀・)「アマチュアだよ。プロに憧れてもいたけれど、結局は愚にも付かない小説ばかり書いていた」

(*゚ー゚)「どんな?」

( ・∀・)「つまらないものだよ……どれもこれも、自分の遺影に砂をかけるような……
      そんな具合だったさ……たぶんね」
 
流れ、移ろっていく車外の風景が次第次第にぼやけていく。
僕の意識が少女との会話に集中し始めた証左だろうか。

391 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:51:10 ID:8TNFxtZk0
(*゚ー゚)「けれど、作家って幾つになってもなれるものなんでしょう? 
    何かの新人賞を獲ったっていう人がテレビに出てたけど、
    白髪のお爺さんで吃驚した憶えがあるわ」

( ・∀・)「そんな人は希少だよ。もしくは、手間を惜しまない老人へのケアマネジメントだろうね。
      先天的な才能と、適切なコネクションの持ち主だけが、
      プロと名付けられた切符を与えられるんだろうさ」

(*゚ー゚)「あら、随分悲観したものの見方をするのね」

( ・∀・)「慰めだよ……所詮は時間の浪費を正当化する手段に過ぎない。
      目的はどうあれ、手立てだけでも釈明しないといけない場合っていうのが、
      時にはあるものだろうし」
 
妙な展開だ。当初は僕の方が彼女のことを知りたがっていたのに、
気がつけば僕が僕自身の恥部を詳らかにしてしまっている。

あまつさえそれらは、人生と共に置き去ってきたはずの過去でしかないというのに。
まるでチューブで繋がれてしまっているかのように、
次々と取り止めのない思弁が頭の中に送り込まれてくる。

これこそが僕の本意なのだろうか? いやいや、到底認められるものではない。
実際、この移動する白い箱が救急車であり、
隣で運転している少女がメンタルクリニックの女医であるという可能性だって捨て切れてはいないのだ。
 
僕は意図しないうちに、カウンセリングという名の取り調べに掛けられているのかもしれなかった。

392 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:54:07 ID:8TNFxtZk0
(*゚ー゚)「遺影に砂をかけるような小説って……どんなの?」

( ・∀・)「さあね」

妄執じみた思惑に囚われた僕は、巧みとはいえない口調で彼女の言葉をはぐらかした。

( ・∀・)「僕はもう……希死念慮とはお別れしたんだよ。それも、友好的に」
 
そして窓外の景色を眺望した。貸出し用の倉庫が群れて集っている。
開け放したままの窓から入り込んでくる空気は徐々に湿っぽさを増していた。
車は確実に北へ……山側へ向かってひた走っているようだ。

僕はこの風景に見覚えがあるだろうか?
一度や二度くらいは家族に連れられてやって来たことがあるのかもしれない。
しかし、それだって映画や何かで観た風景と混同してしまっているのかもしれない。

いずれ、僕の物覚えが人より悪いことぐらいは自覚している。
アルコールや何やかやで奪い去られた記憶力は、
人生を脱ぎ捨てたところで取り返せるわけではないのだ。
 
普段の行動範囲があまりにも狭いせいか、見慣れない土地へ赴いても然程の不安は感じない。
だが、もしかしたらそれは動物が本来持ち合わせておかねばならない警戒本能を、
喪失してしまっているだけかもしれなかった。

393 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 20:57:34 ID:8TNFxtZk0
……厄介な袋小路だ。
少女との会話も、自問自答も、結局は我が身を追い詰める要因にしかなり得ない。

こうなると、希死念慮と別れたという先ほどの言葉も真実味に欠けてしまう。
人生が患ってしまった宿痾は、少なからず僕自身にも影響を与えてしまっているのだろうか。
 
いや……それ以前にまず、僕には対峙しなければならない問題がある。
それは自問自答では済まされないものだ。
最初から明確に顔を出していたにも関わらず、僕自身が逃避し続けていた問題……。

( ・∀・)「ねえ、ちょっといいかな」

(*゚ー゚)「なに?」

( ・∀・)「今の僕って……どんな風に見える?」
 
少女に問いかける言葉としては何となく異様で、そのうえ自虐じみていた。
公衆の面前で服装の乱れを糾弾されるような、被害妄想にさえ苛まれてしまう心持ち……。

しかし手紙の内容に従い、入水自殺を遂行する者としては誰かに問わずには終われないのだ。
何しろ添い寝していた僕の人生が曖昧だったからといって、
僕自身の存在に確実性が残っているとは限らないのだから……。
 
案の定、少女は困惑した様子だった。スピードを緩め、僕の全身を横目で見渡している。
少女の視線が細い注射針のように皮膚の下で蠢いている……。
馬鹿らしい……まるで色情狂じゃないか……自嘲気味の笑い……。

394 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:00:13 ID:8TNFxtZk0
(*゚ー゚)「どんな風って……別におかしいようには見えないけど」

( ・∀・)「本当に?」

(*゚ー゚)「疑うならミラーで確認してみればいいじゃない」

彼女の仄白い指がバックミラーを差す。
考えてみれば、車にはサイドミラーまで取り付けられているのだから、
車内の僕たちは四六時中鏡に覗き込まれているようなものだ。

普段の僕なら負けじと見返していただろう。しかし今は出来なかった。
またぞろ余計な妄想が……頭の中で小動物のようにジャンプし始めたからだ。
 
つまり……鏡の表面に一般的な……少なくとも人間として認められる……
僕の姿が映り込んでいたと仮定しよう。しかし、それだけで問題が本質的に解決したとは言えないのだ。

僕は既に自己証明書を失っている。
その時点で、正常な感覚器を有しているとはとても言い難いのではないだろうか? 

シンプルな認識論の問題として、僕は僕の目に映る自分自身を一般化してもよいのだろうか。
他人の眼を通せば僕は全く異なった容貌を呈しているかもしれない……
そう、例えば一斤のパンだったり……。
 
いったい僕は何を言っているんだ、そこまでして思考の坩堝に嵌まり込んでしまいたいのか……? 
まるでこの二十一グラムの……そうだな、八割あまりが疑心暗鬼でできているような有様じゃないか。

簡単に考えよう。自分の感覚が信じられないなら他者の……少女の感覚を信じればいい。
それとも、僕はまるっきり言動を信用できない相手が運転する車にのうのうと同乗しているのか? 
果たしてお人好しなのか、それとも何も考えていないだけなのか……。

395 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:03:10 ID:8TNFxtZk0
どうにも感情が安定しない。喜怒哀楽の四文字の上を忙しなく横飛びしている気分だ。
人生を服用しなくなったせいで、離脱症状が出ているのかもしれない。

博打で勝ち続けているような興奮と浮遊感の中に、
ふとホームシックみたいな湿っぽさが顔を出したりもする。
鼻をすすり上げた。複雑な心情の螺旋は、最終的には感傷へと辿り着くものらしい。

ざらついた心臓が骨と擦れて、不協和音を奏で続けている……。

(*゚ー゚)「やっぱり気分が悪いの?」

( ・∀・)「そうじゃないよ。少し喉が渇いてるだけさ」

(*゚ー゚)「でも、汗をかいてる……」

( ・∀・)「生理現象だよ」

396 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:06:34 ID:8TNFxtZk0
緩やかな坂を上りはじめる。すれ違う車の数もずいぶんと減っていた。
時たまやって来るのは砂利を積んだダンプや薄汚れた三ナンバーばかり。

いつの間にか、住宅街から遠ざかっていたようだ。
細い歩道を、前も向けないぐらい骨の曲がった老婆が手押し車を頼りにとぼとぼと歩いている。

(*゚ー゚)「この辺りはいつも工事をしてるわ……何が変わったのか少しも分からないけど、
    とにかく何かをやってはいるみたい」

( ・∀・)「砂防工事や治水なんかの類いだろうね。
      いずれ、税金をくすねるための細々とした作業に違いない」

(*゚ー゚)「斜に構えてばかり……。ねえ、何か悩み事があるなら聞いてあげるわよ。
    隣の席で落ち着かずにいられると、こっちのハンドルまで狂っちゃいそう……」
 
少女の声に、幾分の色気が帯び始める。僕は聞き逃すことが出来なかった。
もしくは僕の希望的観測に過ぎないのだろうか? 

カウンセラーの論法なんて知る由もないが、誘われるままに懺悔を口にするのも些か癪な話だ。
そのため、僕は反論の言葉を口にしようと試みた。

398 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:09:03 ID:8TNFxtZk0
僕が彼女に抱いている印象とは、いったい如何なるものであろうか? 
まあ、何にせよ構うことはない。所詮、愛情と殺意は紙一重ということなのさ。

( ・∀・)「悩みなんて秒単位で増殖していくものだよ。
      何も特別なことじゃないさ、だってタイムラインにさえ地獄は溢れているんだから」

(*゚ー゚)「抽象的な物言いね。でも、作家先生らしい節回しなのかな?」

( ・∀・)「果たして、いつまでも僕をからかいっぱなしでいられるかな。
      第一、君がS地区へ行く目的はなんだい? 
      君みたいな……若い女性が、あんな辺鄙な場所に用事があるとは思えないけどね」
 
言い切ってから、僕は奇矯な後悔に襲われた。僕の役割は真実を穿つための探偵ではないのだ。
たいてい、世間の人々は迂遠な言い回しを恋い慕う。

負け惜しみのような反撃に夢中になるあまり、僕は容易にその常識の埒外に踏み込んでしまっていた。
あまつさえ、相手は年端もいかない少女であるようであるというのに。

399 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:12:12 ID:8TNFxtZk0
案の定、彼女はちょっと黙り込んでしまった。
しかし、僕が弁解を述べる前に、彼女はすぅ、と息を吸い込む。
その表情には、仄かな微笑さえ映っているのだった。

(*゚ー゚)「理由ほど、誤魔化しやすいものはないわ。
    たとえば私が……死にに行くと言ったら、貴方はどう思う?」

( ・∀・)「……俄には信じがたいな」

(*゚ー゚)「そうよね、だって嘘だもの」
 
そうして、からからと笑う少女の姿は、僕を一層の混乱に陥れるには十分すぎる迫力を有していた。
 
結句、僕の拙い手管では、彼女の掌で弄ばれるだけだということだろう。
先ほど知り合ったばかりの少女の真相を暴く手立てなど用意できる筈もないのだ。

ある意味で屈辱的な着地点だが、決して悪い気はしない。
それどころか、彼女を取り巻く神秘的な雰囲気がより深い魅力であるようにさえ感じられるのだった。

400 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:15:08 ID:8TNFxtZk0
……当初から分かっていたことだ。
いくら僕の判断力が怠惰だからといって、何の材料もなく彼女をタクシー代わりにするわけもない。

何処からともなく鎌首をもたげた熱に頬が赤らむのを自覚する。
刹那的ではあるが、人生を擲ったことがまるで幸福であるかのように錯覚してしまう。
 
他方、新たな疑問符が脳裏に浮上した。
人生を失った僕は今、いったい何を求めてこの世で呼吸しているのだろうか? 

生きる意味などというものにいちいち思いを馳せるのは、恐らく効率的な仕事とは言えないだろう。
しかし、最も人間的な部分を喪失してしまった現在の自分にとっては至上の命題であるようにも思える。

その答えを過去の僕が書いた遺書は、『S地区の地図』は、
また入水自殺という行為そのものは、教示してくれるのだろうか。
 
鬱蒼とした木々の間に蛇の死骸のように伸びている道路を車は疾走している。
雑味の取り除かれた空気が吹き込んできてくれるが、僕はおもむろに窓を閉めた。
羽虫が飛び込んでくるのを怖れたためである。

閉め切られた車内から、やがて微かな匂いが鼻をくすぐってくる。少女の髪の匂いだろうか?

401 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:18:10 ID:8TNFxtZk0
人生を失った人間には致命的な欠点が一つある。
それは、沈黙によって彩られた重苦しい空気を打破するための、
気の利いた話題が全く思い浮かばないことだ。

僕らの会話の手法は互いのエピソードを絡ませ合うことに尽きる。
しかし一方にエピソードが存在しない今、僕は腐心して別の方策を編み出さなければならなかった。
 
……無茶な話だ。そもそもコミュニケーションが不得手である僕にとって、
斬新な会話の手法を創り出すなど途方もない難題だった。
 
何にせよ、会話を交わすには話題の種が必要不可欠である。
さて、その種とはいったいどこに落ちているのか……。
しかしそんなものが容易に見つかるはずもなく、僕には少女の顔色を伺うことしかできない。
 
少女の白い指がリズムを刻むようにハンドルを小さく弾いている。
傷一つ付いたことのない彼女の肉体の純粋さが、その尖端に集約されているような気さえした。
僕は気恥ずかしくなって視線をそらす。錆色に塗れた道路工事の看板が、路傍に転がり朽ちていた。

402 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:21:29 ID:8TNFxtZk0
(*゚ー゚)「もうすぐ山道に入るわ。曲がりくねった細道だけど、そこを過ぎたらあっという間よ」

( ・∀・)「そうか……」

少し感慨深げに呟いてみせると、それに呼応するように彼女はくすりと笑んだ。

(*゚ー゚)「でも、危なっかしい場所なのよ。
    時々工事車両とすれ違って、事故を起こしてしまいそうになるし……。
    巻き込んでしまったらごめんなさいね」

( ・∀・)「構いやしないよ」
 
僕のあまりにも軽々しい物言いに、少女はほんの少しだけ驚いたようだった。
しかしその言葉は正真正銘、僕の本音でもあるのだ。
 
いずれ、入水自殺が事故死にすり替わるだけの話だ。
過去の自分を裏切ってしまうことになるが、致し方ない事情と言えるだろう。
少なくとも、死の美学に反しているとは思えない。

403 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:24:08 ID:8TNFxtZk0
しかし、僕が何の気もなしに言い放った一言は、思いもよらない副次効果を生み出していた。
今度は少女の方が僕を……追求の視線で眺め始めたのである。

運転に差し障らない程度に僕の存在を気にする彼女の振る舞いは容姿に見合っているように思え、
愛嬌たっぷりに感じられた。

(*゚ー゚)「そう言えばまだ訊いていなかったわよね。貴方がS地区へ行こうとしている理由……。
    よかったら教えてくれない?」

( ・∀・)「やぶさかじゃないけど、当然相応の見返りは期待していいんだろうね」
 
僕は不用意な興奮を覚えていた。
その瞬間、僕は彼女の要求に対し初めて優位な立場で発言できていたからだ。
演技っぽく視線を宙へ彷徨わせる。彼女は一瞬目を見開くと、口角を緩く吊り上げた。

(*゚ー゚)「見返り? そんなに難しいことをお願いしているかしら?」

( ・∀・)「そんなに大袈裟な話じゃない。ただ僕は、話の物種を拾い出そうとしているだけさ」

(*゚ー゚)「……いいわ。じゃあ、私の目的を教えてあげる」

( ・∀・)「本当に?」
 
まるっきり、互いを甘やかすような取り引きだ。薄氷を撫で上げるような柔い口調。

(*゚ー゚)「ええ、だって貴方に嘘をつく理由なんてないもの」

( ・∀・)「さっき嘘をついたばかりじゃないか」

(*゚ー゚)「嘘をつく理由も、嘘をつかない理由もないってこと……」

404 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:27:15 ID:8TNFxtZk0
彼女が吐息とともに口ずさんだその言葉は、本来の意味以上に僕の心情を複雑にさせるものだった。
つまりは、適当にあしらって済ませられる程度の存在ということである。

どうやら、その事実は僕の中で未だ燻り続けている童心の、
嫉妬にも似た底意地の悪さを呼び起こしてしまうようだ。
全く八つ当たりもいいところだけれど、これが人間の性質ってやつなのかもしれない……。

(*゚ー゚)「そんな顔しないで」

僕の表情筋から滲み出た負の思いに気付き、彼女は一段と声を潜めた。

(*゚ー゚)「私から先に話してあげるから」
 
少女のか細い肉体からしばしば発揮される、どこかノスタルジックな母性は常に僕を陶酔させる。
それは麻酔のように僕を鎮めると同時に、名伏しがたい激情を喚起させるのだ。
彼女との距離感を取り違えてしまいがちなのはそのせいなのかもしれない。
 
車は国道から脇道にそれる。
更に傾斜は急になり、荒れた路面のせいもあって心臓が空っぽの身体の中で上下しているようだ。
奇形じみた道幅の狭さに、思わず対向車両とすれ違わないことを祈ってしまう。

405 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:30:21 ID:8TNFxtZk0
(*゚ー゚)「けれど、どこから話せばいいのか……。何を口にしても、信じてもらえない気がする」

( ・∀・)「空想めいた話は得意だよ」

(*゚ー゚)「きっと、貴方の小説の助けにはならないわ」
 
そう彼女が断言した瞬間、僕は確かな視線を感じた。
運転という作業を文字通り手放してしまったかのような――
ともすれば睨めつけているようにすら感じられる――鋭さ。

僕にはその視線が、故意に他人を遠ざけようとする警戒感の表れであるように思えた。
いや、或いは彼女自身を敢えて孤立させようとしているのかもしれない……。
 
僕がちょっと怖気づいたところで、彼女はこう口走った。

(*゚ー゚)「私は私のことを探しているの」

406 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:33:19 ID:8TNFxtZk0
( ・∀・)「なんだって……」
 
坂を上るにつれ、徐々に左側の風景が開けてくる。
しかし、木々の頂きに見えたのは湿っぽい靄ばかりで、遠くの景色を望むことは出来ない。
経年劣化した頼りないガードレールが僕のすぐ隣に寄り添っている。

ちょっと首を伸ばしてみると、手入れの行き届いていない林藪が底なし沼のように広がっている。
粘度の高い液体を湛えているような、青々とした闇……。
 
不意に、蟻走感を伴った怯えが背中から僕を覆い隠した。
耳鳴りが爆ぜて、聴覚が手元から離れていく。ひどい気分だ。
悪意をたっぷり詰め入れた無重力の中でもがいているような具合だった。

(*゚ー゚)「私は、私自身と離ればなれになってしまったのよ。
    今ここにいる私は、抜け殻みたいなもの……」

彼女の声が、ぼうぼうと不愉快に反響しながら辛うじて頭に入ってくる。
僕はぎりぎりの思いで彼女の言葉を噛み締め、内容を理解しようとした。

(*゚ー゚)「きっと、もう一つの私には、私の本当の容姿や思い出、
    プロフィールなんかがきちんと納められているんでしょうね」

407 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:36:04 ID:8TNFxtZk0
三半規管が狂いだした。強烈な目眩が断続的に訪れ、僕の中の骨という骨をかき鳴らし始める。
胃液が飛び出そうになるのを何とか飲み込んで、僕は僕の身体を重量に乏しい両腕で抱きすくめた。

彼女は未だに喋り続けているようだったが、こうなっては内容はおろか、声そのものも認識できない。
失神しないのが不思議なぐらいだと片隅で思った直後、視界のブレーカーが落ちる。
 
電力はすぐに回復した。
しかし、次の瞬間に映り込んだ景色はそれまで保っていた連続性をすっかり失ってしまっていた。
 
そこは紛れもない水中だったのだ。

僕自身が液体に浸されている感覚はなかったが、両眼だけがしっかりと、
蒼くゆらめく水の風景を捉えている。
泡沫の一つも浮かび上がらない、非現実的でありながらも何となく落ち着いてしまう水底……。
 
徐々に目が慣れてきて、様々な対象物を捕捉していく。
その中で、最も強く存在感を放っているのは目の前の遊具――ブランコである。
長く放置されていたらしいそのブランコは、鉄錆と苔に塗れていた。もはや、元の色さえ定かではない。

僕はその堂々と佇む巨躯に、暫くじいっと見入ってしまった。他にも注目すべきものはあっただろう。
だが、ブランコは懐かしさと禍々しさをない交ぜにした特異な魅力によって、
僕の興味を独占してしまったのだ。

僕は殆ど無意識に、座板に腰を下ろすためにゆっくり歩き出そうとしていた。

408 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:39:25 ID:8TNFxtZk0
そんな僕を、幻視から覚醒させたのは他ならぬ少女の悲鳴だった。
視界が即座に切り替わる。

水底から地上に立ち戻った僕の目は、
カーブの向こうから迫りくるあまりにも巨大なダンプカーに釘付けになった。

隣で、少女が急ブレーキをかけながらハンドルを切っている。
慣性に引っ張られた車体が、不吉な摩擦音をあげながらぎくしゃくと回転する。
 
その全てを、僕はまるで話に聞く走馬燈のように鈍いスピードで観察していた。
僕はなおも減速せずに突っ込んでくるダンプカーの前照灯に、
あからさまな殺意が込められていることさえ認識していたのだ。

数秒と経たずにダンプとこの車が衝突し、弾みでガードレールを突き破り、
林藪の底へ転落していく様子まではっきりと想像できた。

絶望的な結末であることには違いなかったが、不思議と悲壮感に包まれることもない。
僕はあまりにも客観的な心持ちだった。
それはもはや、右隣で絶叫している少女に冷めた視線を送ってしまうほどに……。
 
意識の端で、水底のブランコが独りでに前後運動を始めていた。
いったいその不可思議な象徴は僕の人生に、
もしくは僕そのものにどのような形で与していたのだろうか?

409 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:42:09 ID:8TNFxtZk0
しかし、考察する暇もなく殺意の鉄塊と化したダンプが斜め前から遂に牙をむいた。
烈しい破砕音と衝撃。思考が脳味噌から叩き出され、二十一グラムの僕が呆気なく宙を舞った。
 
次第次第に遮断されていく意識の途上、僕は何故か車外へと放り出されていた。
確かに窓を閉めていたはずだが、僕の『抜け殻みたいな』肉体は空中で放物線を描いている。

僕が直前まで乗っていた車――未だ彼女が乗ったままである筈の車――が、
崩れるようにして崖から転落していた。その光景も、僕の関心と同調するようにして遠ざかっていく。
 
殆ど地面と平行するように宙をなぞっていた僕の肉体が、やがて落下へと転じる。
木々の沼に沈み込んでいくさなか、僕は初めて、シートベルトをつけていなかったことに気がついた。

※ ※ ※

410 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:45:21 ID:8TNFxtZk0
夢を見ている。
 
僕にはそれが夢であるということが断言できた。
何故ならそこは先程まで同乗していた真っ白い車の中で、僕はその運転席に腰を下ろしていたからだ。
ぐったりと弛緩しきっている身体は生白く、しかし圧倒的に瑞々しい矮躯。

つまり僕は夢の中で……少女の肉体に憑依しているのだった。
 
どうやら、僕の意思で彼女を動かすことはできないようだ。
彼女は微動だにせずじっとシートに横たわっていた。視界の範囲を見渡す限り、
目立った外傷は見当たらない。

事故の衝撃を鑑みれば奇跡といっても過言ではないだろう。
じっさい、運転席が無事に残されていることが不思議なぐらいの勢いだったのだから……。
 
少女が細かくまばたきをした。それと同時に薄ぼんやりとしていた風景にピントが定まっていく。
やはり車体の前方部分は激しく損傷しており、
フロントガラスも砕けて細かい破片が彼女の身体に散らばっていた。

全身に隈無く行き届いている打撲の痛みが痛覚を通じて僕に伝わってくる。
彼女はほんの少し身をこごめて硬直し、絶えず迫りくる疼痛に耐えているようだった。

411 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:48:09 ID:8TNFxtZk0
熱っぽく呻きながら首を動かす。やがてその視線は助手席を捉えて動かなくなった。
空っぽの助手席。さっきまで僕が居座っていたその場所にも、ガラス片が飛散している。

彼女はじっとその空間を眺めていた。
そのうちに意識が明瞭になってきたようで、緩やかに双眸が見開かれ始める。
 
少女は僕の姿を探していた。それは恐らく、希望的観測でも何でもない、客観的事実である。
忽然とその存在を消した僕を追い求め、彼女は腕を伸ばして宙をかきまぜていた。
 
まさか僕の思念が彼女に憑依し、共鳴しているなど気付かれもしないだろう。
あまつさえ、僕自身も僕の身体の所在を知らないままなのだ。

そもそも僕自身は無事なのだろうか。
生死の境を彷徨っている二十一グラムが、
その最終手段として彼女に寄生することを選んだのかもしれない。

なかなか気の毒なことだが、主観的な心持ちとしては悪くない。
寄生虫願望、なんて言葉は辞書に載っていたかな?

412 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:51:08 ID:8TNFxtZk0
少女は柔く、優しくその手を助手席に置いた。
そして、まるで僕の残渣を探すかのように、淑やかな仕草でシートを撫で上げる。
僕には見当もつかない意図でもって、彼女はその行為を繰り返し続けた。

彼女にしてみれば、一人で行う密なる儀式の類いなのかもしれない。
僕は、彼女がガラス片で傷付いてしまわないか、心配でたまらなかった。
 
彼女がその手を休めるまでに幾ばくの時間を要しただろうか……。
諦めの吐息が口をつく。続いて、咳き込むような笑い。
身体を揺らすたび、軋むような痛みが全身を駆け巡る。

それでも彼女は笑うのをやめなかった。
まるで、自分が今置かれている状況への理解を、心臓の奥底まで深めるかのように……。
 
僕は彼女のエピソードに最後まで耳を傾けることが出来なかった。
そしてこれから先も彼女のことを知る機会は永遠に訪れないだろう。

僕は彼女について知っている唯一の情報――彼女が自称『抜け殻』であるということ。
皮肉にもそれは、僕の知的好奇心を最も刺戟するものだった。
僕にとってそのキーワードは、彼女への一方的な同情を寄せるには十分すぎたのだ。

彼女の方はどうだったのだろう? 彼女は僕が『抜け殻』だということに気付いていたのだろうか? 
気付いていたからこそ、僕を車に乗せてS地区にまで運んでくれたのだろうか。
 
いずれ解かれることのない疑問だ。
こんなことを、彼女の肉体に憑依しながら考えているのだから、なんとも救えない話じゃないか……。

僕は少女と、くつくつとした笑いと、じくじくとした痛みを共有しながら、
それでもなお物思いだけは少しも触れ合わせられないでいるのだ。

413 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:54:04 ID:8TNFxtZk0
僕たちの奇妙な邂逅は、その実何の効果ももたらさなかった。
結果として、僕と彼女は互いの傷をなめ合うことも出来ないまま、
離ればなれになってしまったのだから……。
 
やがて彼女はついと身を起こした。底の知れない暗澹の密林が視野の彼方まで広がっている。
現状、彼女は何よりも自身の行方を案じなければならなかった。
その身に取り巻いているただならぬ寂寞を、たった一人の力で打破する必要があるのだ。

僕らが『抜け殻』であるにしても、物理的な生命の機構からは決して逃れることができない。
残念ながら、自身の鼓動だけはいつまでも付き纏ってくる……。
 
そんな僕の憂いとは裏腹に、少女は今なお穏やかなままだった。
狂気に身を窶すことも、失意に打ち拉がれることもない。
むしろ悠然とした振る舞いで車外の風景を見渡していた。

(*゚ー゚)「大丈夫」

彼女の口からそんな言葉が漏れ出した。
脈絡のない涙のように、それは唐突に口をついたのだ。

(*゚ー゚)「大丈夫、私は自分自身を探し出せるわ。きっと人生を取り戻せる。
    私は私の人生を歩いていけるに違いないから……」

414 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 21:57:07 ID:8TNFxtZk0
あまりにも平坦な口調で、流れるようにそう呟いたあと、少女はドアに手をかける。

力を込めると鋭い痛みが骨を伝わって全身に響くが、
彼女は気にも留めずに勢いをつけてそれを押し開いた。
転がるようにして外へまろび出た少女の半身を、冷えた泥土が容赦なく襲う。
 
今にも雨粒が落ちてきそうなほどに重苦しい湿気が少女に纏わり付いている。
彼女は立ち上がりながら土に塗れた自身を見下ろし、
それから行く手を遮る薄暗い植物の群れを見遣った。

一見しただけで、歩を進めるのが躊躇われるような木々の闇だ。
行く当てがあるのだろうか……いや、あるわけがない。
今や彼女を導くものなど何もなく、荘厳な自然が頑なに彼女を突き放しているばかりだ。

それでも、彼女は決然と前だけを見据えていた。
挫けてしまいそうな自身を叱咤するように、掌で一度胸を強く叩いた。

(*゚ー゚)「私はもう、子どもじゃないから……」
 
先程よりはっきりとした声音で彼女は自分に言い聞かせ、覚束ない脚で一歩目を踏み出した。
泥で汚れた頬に汗が浮かび、滑らかに垂れていく。
二歩目、三歩目とぎくしゃくした具合で歩いたが、やがて歩調にリズムが生まれた。

同時に、彼女の姿が僕と乖離し、次第次第に遠ざかっていく。
雑然とした草木を分け入る、泥と汗に濡れたいじらしい背中が、
曇天の垂れ込める暗闇に溶けて消える……僕の中の、別れの場面が静かに幕を引く……。

415 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:06:38 ID:8TNFxtZk0
そして僕は自身の肉体へ立ち戻ったのだった。
せいぜい、妄執の溢れた夢から醒めただけなのかもしれない。
しかし僕の心臓は、情動は常ならず熱を帯びていて、今にも吐瀉してしまいそうなほど浮ついていた。

淫靡な毒薬が全身をゆっくり循環している……目を閉じると、瞼の裏でビビッドな色彩が踊っている。

そこはやはり、果ての知れない森林の一地点であるらしかった。
僕は冷たく湿った地面を背に仰臥している。

痛みはない……いや、ただ痛覚を自宅に置き忘れてきただけかもしれないな。
しかし仰向けのまま不器用に四肢を蠢かしてみたところ、どれも正常に機能するようだ。
人生の欠落した人間は、自重に殺されない程度の重さしか持たなくなってしまうらしい。
 
視線の先で広葉樹の枝葉がびっしりと犇めいている。
聴覚を研ぎ澄ませてみると、耳鳴りのような虫の声が低く響いていた。
少女の足音はおろか、自分以外の存在は何一つ感ぜられない。
 
全身に粟立った鳥肌に羽虫が齧りついているような不快感を覚える。
所詮、自分は夢を見ていただけに過ぎないのだ。
少女の行方はおろか、生存自体も脳味噌が捏ね上げたイメージでしかない。

それを認識する傍らで、僕は先程の幻視が紛れもない真実だと思い込みつつあった。
だってそうだろう……実際に目にしたものだけが、体験したことだけが現実だなんて……
あまりにも寂しいじゃないか。独りぽっちで水子の合唱を聴いているみたいでさ……。

416 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:09:19 ID:8TNFxtZk0
漠然とした陶酔を手放してしまわないように、僕は慎重に起き上がる。

薄暗く、静謐に支配された自然の中に放り込まれると、
如何に自分の五感が鈍っているかをまざまざと知らされる。

この期に及んで僕は、辿るべき道筋すら見出せなくなってしまったのだ。
人生を失い、少女を失い、一切合切を持ち合わせなくなったこの魂が、
義務的な時間の順行に従う必要などあるのだろうか……。
 
いや、一つだけ僕はまだ持っている……。
僕はポケットをまさぐり、一枚の紙片を取り出した。
それはしわくちゃに崩れてしまいながらも、何とか『S地区の地図』としての体裁を保っている。

今や無二の相棒となってしまったその表面を、僕は柔く撫で上げた。
 
すると、『S地区の地図』はとぷ、と厳かな水音をたてた。
表面に記された入水を示唆する文章や、家々の記号が微かに揺らめいている。

僕は紙片にてのひらをかざし、徐々にめり込ませてみた。
手先が紙面の中へ沈んでいき、すぐに温かな液体をとらえる。

数秒、指を馴染ませるように緩やかにかき混ぜてから、僕はその手を引き上げた。
ノイローゼのような僕の右手が、水分を呑み込んでてらてらと光っている。

417 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:12:13 ID:8TNFxtZk0
水底に沈んだ、と僕は心の中で何度か呟いた。
同時に、先程の風景……前後運動するブランコを想起する。

妙なイメージは、案外と単純な答えを孕んでいるのかもしれない。
例えば、胎内回帰のような……。考えてみれば、人生を失った僕は、
まだ人生の備わっていない赤子にもよく似ているじゃないか。
 
なるほど……そうしてみれば確かに辻褄が合う。
自殺の方法に入水が選ばれたというのも道理かもしれない。

しかしそれは本当に正解なのだろうか? 
己を理解するために投げかけられた自問が、そのくせ答えを見失うというのも、またありふれた話だろう。
あまつさえ、真実味が説得力を補完するという根拠もないのだ。

自意識の探索というものは、殊の外馬鹿げているのかもしれない。
喪失した自己が自己によって復帰するなんて、何だか矛盾している。

418 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:15:21 ID:8TNFxtZk0
それでも僕は……殆ど機械的な動作でもう一度『S地区の地図』をしまい込み、立ち上がった。

最早僕にはS地区へ辿り着く以外の手立てはない。
誰かに脅されてたわけでも義務づけられたわけでもなく、
僕の魂がその他の成り行きを求めていないのだ。

日常生活から逃れ、社会規範を逸脱し、一種の自罰的な自由を手に入れた僕は、
ただ僕の物語を終わらせるためだけに浮浪する。
物語は独りでに始まった。ならば、独りに終わるのが筋というものだろう。

少女との邂逅が偶発的であれ運命的であれ、僕はその想いに囚われて固着するべきではないのだ。
 
そう……たった一つだけ、確かなことがある。
それは少女との……物理的のみならず精神にさえ及ぶ……乖離だ。

僕たちは『抜け殻』であるという身分こそ共有していたが、
そこに端を発するエピソードは真逆と呼べるものだった。

自ら人生を擲った僕に対し、彼女は人生を諦めていなかったのだ。
本当の彼女の人生は、またそれに伴う肉体は、何処かで彼女の凱旋を待ち望んでいるに違いない。

僕に少女の意図を読み取ることなど出来るはずもなかったが、
それでも彼女の進路ぐらいは痛切に察せられた。

僕が大いに好奇心を惹起された彼女の若々しい体躯も、
当人にとっては忌み嫌う対象でしかなかったのかもしれない。

419 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:18:07 ID:8TNFxtZk0
そんな少女を批判するつもりは毛頭ない。
また、彼女へのコンプレックスに胸を焼かれるわけでもないのだ。
ただ僕たちは、最初から道を異にしていた、それだけの話……。

互いが互いを少しも救えないなんて、まるで人間の生き方そのものじゃないか。
寂しいけれど、実に相応しい幕引きだと思うことにしよう。
 
道なき道を、しるべのない鬱蒼を、僕は誇らしげに真っ直ぐ進んでいく。
臓腑に溢れる自信だけが僕を突き動かしていた。

気がふれたような自分の姿に可笑しさを覚えながらも、
僕は僕という物語が次第に終わっていくのをはっきりと感じていた。
 
次々と立ちはだかる太々とした木々の幹が、古い映画館のスクリーンみたいに淡い幻像を映し始める。
気泡の一つも立ち上らず、ただ深々と豊穣な水中の景色……。

ゆらめきの向こう側に、何かが見える。それがブランコに思えるのは先入観のせいだろうか? 
いつしか自分自身が水中にいるような錯覚に包まれていたが、不思議と息苦しさはなかった。

スクリーンに意識をとられ、酔歩のような危なっかしい足取りになりながらも、
僕はただ前へ前へと歩き続ける。魂はどこまでも、圧倒的に軽やかだ。

420 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:21:29 ID:8TNFxtZk0
僕は、もっと僕の人生を愛してやるべきだったかもしれない……。
ふと、そんな悔悟の念が、じとりとした汗粒と一緒に頬を垂れる。

僕が僕を無闇に憎まず、人生と友好的に握手を交わしていれば、
もしかしたら違った道のりが生まれていたかもしれない。

けれど、実際のところは何もわからないのだ。
僕は生き方ということについて、自分の方法しか知り得ないのだから。

愛すべき人生などあったのだろうか。美しき人生はどこかに潜んでいただろうか。
ただ、確実に言えるのは僕という人間がここに来るまでに、
持ちうる限りの言葉を使い尽くしたということだけだ。

421 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:24:05 ID:8TNFxtZk0
不意にスクリーンの映像が切り替わり、まるで鏡のように森林の風景を映しだした。
その中でも一際目立つ巨木を背に、一人の女性がしなだれかかっている。

危なっかしい体勢で、今にも崩れ落ちそうだが、
八方から絡みついている薄緑のツタが何とか彼女の座り姿を保っているようである。

俯き加減で目を閉じている彼女は、一見すると亡骸のようでもあるが、
よく目を凝らすと微かに生気が漂っているのが感じられる。

その肉体は、立派に成長した大人の肉体だ。
整った容貌は色白ながらも鮮やかで、件の……少女の面影が幾ばくか残されている。

僕は思わず手を伸ばしていた。
しかしスクリーンの中の彼女は、触れようとすると無数の光になって弾けて消えた。
 
場面はまた、水中に切り替わった。
 
――ブランコだ。今度こそ紛れもなくブランコが像を結んでいた。
その周囲に、魂のように淡く輝く小さな球体が数多と集っている。
それらはブランコの前後運動と合わせ、生命を強く主張しながら踊っていた。
 
まるで、世界の全てを見ているように、綺麗だ。

422 : ◆xh7i0CWaMo :2015/07/03(金) 22:27:01 ID:8TNFxtZk0
幼子たちの歓声が聞こえる。象徴としての生命たちが、歩みゆく僕を強く抱き締めている。
多くの感傷が、叫び声のような情動が、今や遅しと脳裏を貫いた。
フィナーレの音楽に充ち満ちた僕という存在に、意味を持たせてくれているようだ。
 
人生を想う。僕が無碍にしてきた布団の中の遺骸に、一切の思惑を向ける。 

スクリーンが途切れる。
 
青々とした水を湛えたこの世の果てが、視界いっぱいに広がっている。









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