ピーマン・スイッチ

80 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:24:42 ID:MEKC0iVA0
5.ピーマン・スイッチ

※ ※ ※

(ニュース記事より一部抜粋)

雑居ビルの屋上に性別不明の遺体が放置されているのを、ビルの管理人が発見した。
遺体は、激しく損傷しており、身元の特定は困難。
(中略)警察では、事件事故両面で捜査を進めるとともに、遺体の鑑定を進めている。

※ ※ ※

81 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:27:03 ID:MEKC0iVA0
凍りついた時間の中で、無数に山積するピーマンの残骸をぐるりと眺め回した。
何もかもが壊れてしまっている。生き物だけでなく、建築物や乗用車までが微塵と化してしまった。

世にある全てがピーマンに侵されていたことを明確に示す証拠だ。
騒々しい足音や声を失い、ようやく世界は落ち着きを獲得した。

僕はスイッチを握りしめたまま、瓦解せぬままに立っている。
実際のところ、その事実にいちばん驚いた。僕は僕自身が壊れないとは思っていなかったのだ。
いや、スイッチを押す直前までは、そう思いこんでいたのかもしれない。

ある意味、目の前の光景は僕のイメージしていた通りなのだから。
しかし、スイッチを押した瞬間からはどうだっただろう。

ずっと昔から僕の血中に流れていたピーマンたちは、
一斉にその姿を脳裏にさらして主張を始めていたではないか。

崩落する外界のピーマンたちを眺めながらも、自己がはじけて崩れることを待ち望んでいたはずだ。
だが現実に、そうはならなかった。僕が体感していたピーマンたちは偽物だったのだろうか。
あるいは、スイッチの機能が不完全だったのかもしれない。
 
だが、それならそれでかまわない。むしろ、それでこそすばらしい。
結局僕はピーマンに毒されていなかった。

82 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:30:14 ID:MEKC0iVA0
スイッチの機能不全があったとしても、
ここにいるのはもはや僕一人なのだから簡単な自己証明さえ済ませてしまえばいい。
もう他者と意見を生温くすりあわせる必要など、どこにもないのだ。

なんて幸せなことだろう、僕はピーマンに冒されていなかった!

そしてやはり……周囲は病んでいた。見たところ僕のほかにはピーマンしかない。
患者でなかったのは僕だけだったのだ。分かっていたこととはいえ、いささかの失望を覚える。

同時に、嘲笑もこみ上げてきた。熱を失った路上での孤独。
機械のような風が吹いて、ピーマンが音もなく転がった。

ピーマンはその成熟とともに純粋と想像を削り落としていった。
しかしスイッチを押すと、それらはピーマンとともに崩れさった。
救済と殺害を同時におこなってしまったわけだ。僕はしばらく、この矛盾と戦わなければならないだろう。

それとも、ピーマンの浸食は予想以上に細部にまで行き渡っていて、
それらを完全に破壊してしまっていたのだろうか。
もしそうだとすれば、まずピーマンの定義を見直すところから始める必要がある。

83 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:33:44 ID:MEKC0iVA0
スイッチをズボンのポケットにねじ込んで、僕はゆっくりとピーマンの海を歩き始めた。
まるで哲学の荒野を行くようだ。全ての論理がスイッチの前に屈服した。
世の中でさんざ善と偽善を議論していたピーマンどもが全て水泡に帰したのだ。
 
すっきりと晴れ渡った空を仰ぎながら、さしあたって羽根を作ろうと僕は思った。
カイパーベルトの向こう側には、ピーマンのない天体があってもおかしくない。
そこまで飛んでいくための羽根を作ろう……足は自然と、研究所の方へ向かいだした。

※ ※ ※

84 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:36:20 ID:MEKC0iVA0
遺伝したものではなく、後天的なものだったように思う。
だからといって、特別にトラウマがあったというわけでもない。ふと気がついたときからそうだった。

しかし、そういうことはままあることだ。
親がジャズを好むからといって、子までが同じ音楽を嗜好するとはかぎらない。
また、好き嫌いが必ずしも精神の深部に起因するというわけでもないだろう。

ともかく、物心ついた時から、僕はピーマンが嫌いだった。
僕自身がいくら拒絶しようとも、その忌まわしき存在は時間とともに膨張し続け、
そのせいで僕のピーマンアレルギーは更に病状を進行させたのである。

成長するにつれて、周りがピーマンの話題一色に染まることが我慢ならなくなっていった。
彼らが独自のものと錯覚してたれ流すピーマン理論の主張は、
耳をふさいでも心臓に流れ込み、強烈な力で血管を絞めあげた。

次第次第に僕はノイローゼのような症状を負うようになった。
この世に生まれついたからといって、
ピーマンを食べ続けさせられる義務を担わされた憶えなどどこにもなかったのだ。

嘔吐と悲鳴と怒号をこらえながら、僕はピーマン世界観からの脱走を図った。
友人は一人ずつ消えていき、僕はやがて孤独になった。それでかまわなかった。
むしろ、煩わしい関係をすべて断ち切れたことには一種の満足感さえ覚えたほどである。

85 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:39:05 ID:MEKC0iVA0
しかし、それでもなお、ピーマンから逃げきることができなかった。
孤独でさえ、ピーマン抹消の代償としては安すぎたのだ。

僕はいよいよ死を考え始めていた。不条理なことだとは思っていた。
被害者であるはずの僕が何故自ら死ななければならないのだろう。

死ぬべきはまるでそれを好むのが当然のようにピーマン論を吐き出し、
ピーマン観念を押しつけてくる奴ら、すなわち周囲の人間たちではないのか。

ピーマンを好まない、あるいは食べない奴を非人間のように扱い、その原因を様々なところから求めて、
ピーマン的方程式に当てはめ答えを出そうとする下賤の屑ではないか。

いずれ、彼らの暴虐から解放されるには、やはり死ぬしかない。
だが、死んでみたところで、あの世はやはりピーマン脳の死者で溢れかえっているのだ。

生前も死後も何も変わらない。ただ肉体があるかないか程度の違いである。
ピーマンはれっきとして肉体的境界の両側に存在する。僕は死にさえも失望せざるを得なかったのだ。

86 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:42:19 ID:MEKC0iVA0
生き場所も死に場所も失って、僕は降り懸かってくるピーマンを振り払うことさえあまりしなくなった。
テレビをつけっぱなしにし、巨大ビルの壁面を飾るピーマンポスターから目を背けなくなった。
 
いっそ、僕もピーマンに絆されてしまえばいいと思うようになった。
それが、この天体、この世界では普通の生き方なのだ。
自意識にさえ片が付けば、何も躊躇することではない。

法律や倫理は何の気も無しに僕を受け入れてくれるだろう。
青春や物語は、それこそ喝采をもってして迎えてくれる。
 
その時期、僕は確かにピーマンへの敗北を認めそうになっていた。
先生に出会っていなければ、今頃僕は想像の断末魔、
あるいは肥大した末端神経の中へ埋没してしまっていたことだろう。
 
あれは忘れもしない、八月初日の夜中、卵を落とせば煮え立つような熱気の渦。
そこはアスファルトの路上だった。

※ ※ ※

87 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:45:04 ID:MEKC0iVA0
そのとき、先生はどうやら泥酔していたらしかった。
硬い地面に仰向けに転がり、暗澹とした空中を据わりきった両目で見つめていた。
そして、視界のはしに僕をとらえるや、急に大きな声でまくし立てはじめたのだ。

川 ゚ -゚)「きみ、きみ。きみには、嫌いな食べ物はあるかい……まあ、何でもかまわない、
     仮にピーマンとしておこうか。

     きみはピーマンが嫌いだ。
     それはもう、ピーマンを食わされるなら死んだ方がましだっていうぐらいなんだけど、
     時には食べざるを得ないことがある。

     そうだね、幼いきみならお母さんに叱りつけられた時とか、
     成長したきみなら恋人や上司の面前であるとか、そういう場合、
     きみはやむを得ず嫌いなピーマンを口に運ばなくちゃならない。

     でも、それぐらいは仕方のないことだ。理屈を抜きにしても納得はできるし、
     我慢もしとおせるだろう。

     ところがこれが、更に活動範囲を広げてしまったとしたらどうだろう。
     きみはコンビニに入って、なんとなしに雑誌を手に取る。
     するとその表紙をピーマンが飾っているわけだ。

     中を開いてみてもそう、いたるところにピーマンが溢れかえっている。
     青臭さがにおってきそうでさえある。きみは慌ててページを閉じるだろうね。
     そしてふっと顔を上げる。ガラスの向こうの大通りを、ピーマンが歩いている。

     それも大勢だ。
     その日が休日ならばピーマンたちは、自らのピーマン部分を隠そうともせずに
     こぞって街に繰り出し、視界いっぱいに蠢いているだろう」

88 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:48:26 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「ビルの壁面を巨大なピーマンのポスターが覆っている。これじゃあたまらない。
     きみは家に帰る。帰ってほっと一息ついてリビングのソファに座り、
     そしてテレビのスイッチを入れたとしよう。

     やっているのはピーマンドラマだ。画面の中でピーマンがピーマン理論を語っている。
     チャンネルを変えてもピーマン。きみはテレビを消し、
     逃げるように寝室に駆け込んでベッドに転がりこむ。

     不意にジーンズのポケットが震えた。友人からのメールだ。
     内容はむろん、ピーマンの話。いよいよきみは気が違いそうになる。

     心臓をかきむしられる思いに苛まれながらもきみはやがて眠りにつき、
     しかし、そう、夢の中でまでピーマンに追いかけられる始末さ。
     きみは生きている限りピーマンから逃れられないことを悟る。

     そして遂には、ピーマンと自分の命を天秤にかけて計量し始めるんだよ。

     ……ところで、きみにはこの例えが少し大げさすぎるように聞こえるかもしれないね。
     無理もないことさ。それが嫌いなものじゃなくて好きなものだったとしても、
     街中あらゆるところに存在していれば発狂してしまうだろう。

     むろんそれが普通のことだし、そうならない場合はもう、きみは発狂しているのかもしれない。
     ともかく、そういう疑問を持つことはしごく当然のことなのさ。

     ……こう考えてみてはどうだろう、きみたちが生まれつきピーマン狂であると考えた場合、
     街中あらゆるところにあるピーマンたちはむしろ中毒症状を起こさせないための
     緩衝剤の役目があるのではないだろうか。

     きみたち、いや、わたしたちはもはや、ピーマン無しでは生きていけない。
     ピーマンと同化することを求めているし、
     しじゅうピーマンを味わっていたいと渇望し続けているのさ」

89 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:51:39 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「もちろん、それが決して健康な状態でないことぐらい、きみにだって理解できるだろう。
     でも、それを治癒することはできやしない。

     何せピーマン病は精神病みたいなものだからね、
     鬱病の医者が鬱病の患者を治そうとしたってどだい無理な話なのと同じ事なんだ。
     世の中全員が患者、いわばこの星全体が巨大な病棟みたいなもんさ。

     医者も看護婦もいない、絶望のピーマン病棟だよ。
     ……さあ、少しは分かってくれたかい、わたしにとっての地獄が」
 
それだけ一気に喋りたてると、先生は嘔吐をこらえるような表情で二、三度咳をした。

理解者がいた喜びと、自分より上位の考え方を持つ者に出会った喜びが同時に僕を襲った。
先生が先生となり、ピーマンがピーマンとなった瞬間であった。

(´・ω・`)「分かります」

僕は震えた声を出した。

(´・ω・`)「分かります。僕はあなたのような人を捜していたのかもしれない。
      実際、僕はピーマンによって死を覚悟さえしていたのです。

      こんなところで、僕と同じ考えを持つ人に出会えるとは思ってもみなかった……
      僕は確かに、ピーマン以外への、強固な信仰を求めていたんです」

90 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:54:32 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「きみは、まるで宗教じみたことを言うね」

いくらか酔いが醒めたのか、あるいは単純に声を出し疲れたのか、先生は幾分声を低くして言った。

川 ゚ -゚)「それでは負けだ。形而上の問題で片づけ、その中に閉じこもることは、
     すなわち敗北を認めたことになってしまう。あくまでも地に足を着けて、
     現実世界を基盤にしてわたしたちは動かなければならないんだよ。そのための人間科学だ」

(´・ω・`)「もちろんです。でも、僕にはそうすることができるほどの技術はなかった」

川 ゚ -゚)「ふん。見たところきみはまだ若いね。
     わたしだって、理解者を遠ざけるほど頭の固い研究者ではないんだ。
     わたしのところに来るかね。どうせ、きみは遁走している途中なんだろう?」

(´・ω・`)「僕の両親こそ、ピーマンの塊です。あれこそ、ただのクズだ……」

川 ゚ -゚)「親をそういう風に言うもんじゃないよ。まあ、ピーマンを嫌うものが肉親になつくことは、
     心理学的に見てもありえないことなんだがね……まあいい。
     ちょうど人手が欲しかったところなんだ」
 
先生はふらつきながら立ち上がった。
街灯に照らされて佇む先生の姿は、仰臥していたときよりも遙かに大きく見えた。

※ ※ ※

91 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 20:57:32 ID:MEKC0iVA0
すがすがしい気持ちでピーマンを踏みつぶしながら闊歩しているうち、僕は不意に足を止めた。
人工的な音を聴覚がとらえ、僕はその方角をみた。
 
ピーマンではない人間が、そこに立っていた。
 
少女だった。幼い、まだ小学校に入学したてぐらいの年齢だろうか。
痩せぎすの腕や脚が衣服から露出している。
落ち込んだ瞳は年齢にそぐわない暗さと重たさを放っていた。
 
ところで、僕は先生についてスイッチの研究をしているときに、一つの疑問を抱いたことがある。

(´・ω・`)「先生、赤子は壊れるでしょうか」
 
すると先生は「心配要らないよ」と普段よりも冷たく言い、更に、

川 ゚ -゚)「今の時代、誰しも関係なくピーマンに冒されているのさ。
     赤子だけが壊れずに残るなんて、そんな無粋なことにはなるはずがない」

と付け加えた。
 
そして先生は正しかった。
スイッチを押す直前、僕の目の前には乳母車を押す母親の姿があり、
そしてその乳母車の中には、まだ髪もまばらにしか生えていない赤ん坊が確かに入っていたのだ。

親子は、スイッチを押すと同時に脆くも崩れさった。今はもう、残骸しかない。

92 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:00:23 ID:MEKC0iVA0
しかし、目の前の少女は崩れていない。これはどういうことだろう。
よくよく考えてみれば至極単純なことだ。だが容易には信じがたい。
それでも、結局のところ答えは一つに絞られてしまう。

彼女は、僕たちと同類である。
この世界に、僕と先生以外にも、ピーマン毒に当てられていない理解者が存在していたのだ。

いや、惑星六十億の中にはそういう者がいるという可能性自体は、先生もある指摘していたが、
まさかこんなにも身近に居住しているとは。
 
歓喜と悲嘆がないまぜになって僕をくるみこんだ。
もう少し早い段階で彼女と出会っていれば、悲嘆の分量は幾らか抑えられたかもしれない。
 
彼女は僕に気づくと、じっとこちらを見つめ始めた。何を思っているのだろう。
彼女にしてみれば、何も知らないうちに突然周りが壊れだしたのである。
その凄惨さたるや、グロテスクよりも遙かにグロテスクだったに違いない。

狂気に沈んでいてもおかしくないし、もしかしたらもう一通りそういう表現を済ませた後なのかもしれない。
羽根をもがれたバッタのように、為す術をなくしているのだ。

93 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:03:00 ID:MEKC0iVA0
(´・ω・`)「きみ、名前は?」

なんと声をかけてよいか分からず、ありきたりな言葉を口走ってしまう。

(´・ω・`)「いきなり、こんなことになって驚いただろうね……」
 
少女は何も返事を寄越さなかった。ただぼんやりと僕を見つめ続けている。
彼女をここに放置しておくわけにはいかない。せっかくの、理解者との遭遇なのだ。
今後のためにも、関係を良好に運んでおいた方がいい。

(´・ω・`)「ねえ、僕と一緒に来ないかい。ここにいたって、仕方がないだろう」
 
やはり彼女は口を開かなかったが、僕が歩き始めると、
底の分厚い靴を履いているようなおぼつかない足取りでついてきた。
いくらかの満足感を覚えつつ、僕は研究所へ急いだ。

※ ※ ※

94 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:06:07 ID:MEKC0iVA0
先生は繁華街の方へと足を向けた。どうやら、その方向に先生の住処はあるらしい。
それは僕にとってすこぶる意外なことだった。繁華街はピーマンの巣窟といっても過言ではない。
そんなところに身をおくなど、僕なら血液が沸騰して身体ごと弾け飛んでしまうだろう。

案の定、人波の中を突き進もうとしたとき、胸から何かがこみ上げ、鼻腔を吐瀉物のにおいがくすぐった。

川 ゚ -゚)「辛抱しなければならないよ。自分の不都合から目を背けるのは、弱者の振る舞いだ。
     食わず嫌いというのは、一番格好が悪い。
     ピーマンだって、それなりに調味すれば美味く感じることだってあるかもしれない」

(´・ω・`)「でも先生、僕は今までに嫌というほどのピーマンを食べてきました。
      それらはどれも違った味があったように思います。
      でも、どれも脳味噌が縮みそうなぐらい不味かった……」
 
そうだろうね、と先生は笑い声をあげた。
 
やがて先生は路地に入り、ほど近くに聳えているくすんだ雑居ビルのドアを開けた。
光のない階段を下って、地下に降りる。そこには、鍵穴を四つ備えた鉄扉が待ちかまえていた。
先生は鍵束を取り出し、手触りだけでそれを区別しながら一つ一つ慎重に開けていく。

(´・ω・`)「やはり、防犯体制は万全にしておかなければならないんですね」

川 ゚ -゚)「いや、これはわたしの趣味のようなものだよ。悪癖といってもかまわないな。
     とにかく、多くの鍵をかけないと落ち着かないんだ」

95 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:09:53 ID:MEKC0iVA0
室内は三つのランプで薄暗く照らし出されている。
広さはそれほどでもなく、正面には木製のごつごつとした机が置いてあり、
その上にコンピューター・ディスプレイが四つ載っていた。

そばにある段ボール箱には、製図紙らしい紙束がまとめて突っ込まれている。
右の壁には棚があり、古びた本がずらりと並べ立てられていた。
そして、ところどころにある隙間には、一つずつマトリョーシカが挟まれていた。

左側の壁には家電一式と洗面台……
全てが研究所然としている中で、そこだけ、妙に生活感が染み付いている……が置かれており、
中央にはロッキング・チェアと回転椅子が一つずつ。それらが、この部屋の全てだ。

川 ゚ -゚)「部屋は後二つある。きみが必要最低限以上の生活を求めなければ、
     十分に住んでいける環境だよ。もっとも、そんなに長く居座ることは無いだろうが」

(´・ω・`)「このマトリョーシカはなんなんです? 全部で、九、十……」

川 ゚ -゚)「好きなんだよ、それ。なんだかいいじゃないか。

     肉体という境界の中に無数に肉体が隠されている。
     もちろん、肉体だけじゃなくて心理も潜んでいるだろうし、
     まるっきり、本当の人間みたいじゃないか」

96 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:12:02 ID:MEKC0iVA0
(´・ω・`)「しかも、ピーマンに冒されない?」

川 ゚ -゚)「そればかりは、残念ながら叶わないね。
     ピーマンは生き物だけじゃなく、無機物にも宿るよ。ピーマンの種は、双方向でなく、
     一方が蒔けばそれだけで水も要らずに発芽するんだから。

     しかも、一度生えたら二度と取り除くことができないんだ。
     それこそ根こそぎ抜き取ったつもりでも、毛細血管みたいな末端の残滓からまた、
     やつらは無限に伸び上がってくる。それがピーマンさ」
 
僕はマトリョーシカを手に取り、一番大きな肉体を脱がせてみた。
途端に妙な気分になり、あわててそれを元に戻す。

川 ゚ -゚)「マトリョーシカには、あまり触らないでくれるかな……そうやっているのを目にしていると、
     どうも変な心持ちになるんだ……」
 
先生は、妄執的な手つきで机の上の筆記用具を片づけ始めた。

※ ※ ※

97 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:15:10 ID:MEKC0iVA0
残骸の中に、やはり研究所は生存していた。
地面が剥がれ、水道管や蛍光灯のパイプなどと、
地下室であった三つの部屋が地上へむき出しになっている。

地上すれすれを鋭利な巨大ナイフで切り取ったようにも見える。
雑居ビル自体は壊れてしまったようだが、この地下だけはしぶとくも生き残っていたらしい。
すばらしい生命力の強さだ。思わず涙ぐみそうになる。

無色の瓦礫の中、僕と少女とこの部屋だけが、色を残しているのだ。
こう言うと前の世界……スイッチを押すまでの世界を懐かしんでいるように聞こえるかもしれないが、
決してそういうわけではない。色は未来の創造を受け持つ約束手形なのである。

僕は少女を連れて階段を下り、開け放していた扉から室内に入った。
そもそも僕が今日わざわざスイッチを外で押したのは、
空間が崩れゆく様を脳裏に焼き付けたいという嗜虐的な願望のためである。

子どもじみた悪ふざけの気さえなければ、別に此処で押してもよかったのだ。
実際のところ、思ったほどの快楽は得られなかった。
崩落している短い間、僕は自分の存在あるいは不在を逐一確認するのに精一杯だったのである。

98 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:18:27 ID:MEKC0iVA0
僕は少女に振り返り、

(´・ω・`)「ここは僕の住処だ……あと二部屋あるから、しばらくの生活には困らない……
      もっとも、すぐにこの部屋もあらかた必要無くなるだろうけどね」

細かく表情を動かして微笑んで見せた。
 
室内は外出前と同じたたずまいでしんと静まり返っている。
目の前にコンピューター・デスク。
左手に家電一式、中央に回転椅子、ロッキング・チェア、右手には壁一面の本棚……。
 
その本棚の中身が、いささか傾いていることに僕は気付いた。
注意深く見渡してみると、案外たやすく異変を発見することができた。

マトリョーシカが無くなっているのである。
全部で十体、本棚の隙間を矮躯で埋めていたマトリョーシカが、すべて消失してしまっているのだ。
 
結局、あのマトリョーシカには最初にこの部屋を訪れたときを最後に、一度も触れることがなかった。
先生がいなくなってからも同様である。

先生は、時々マトリョーシカを取り出し、回転椅子に座って優しく愛撫していた。
だが、それも僕に見つかると、すぐにばつが悪そうな顔をして本棚に押し戻すのである。
 
マトリョーシカが消失した原因について、むろん憶測が無いわけではなかった。
いや、むしろ唯一それしかありえないのである。してみると、
先生はやはり、マトリョーシカ十体に種を蒔いたのだろう。
 
不意に靴裏に奇妙な感覚を覚え、足をあげてみると、ピーマンの残骸がこびりついていた。
 
少女は唖を貫いたままである。
僕は言い訳じみた苦笑を浮かべ、残骸を床の隙間に埋め込むようにして、何度も靴を擦りつけた。

※ ※ ※

99 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:22:38 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「きみにはいくつか、こなして貰わなければならない課題がある」
 
僕を回転椅子に座らせて自分もロッキング・チェアに腰掛け、先生は言った。

川 ゚ -゚)「まずはきみのパーソナルデータだ。名前や年齢、住所など……
     できるだけ、詳しく教えてもらおうか」
 
僕はそれらの質問に、嘘をつくことなくすべて正直に回答した。
質問は所属していた幼稚園や両親の職業、思いつく限りの親族を列挙するまでに至り、
答えにつまることもしばしばあった。およそ二時間は、自分のことについて語らされたと思う。

川 ゚ -゚)「よし、これぐらいで結構だ」

いつの間にか、すっかり酔いの醒めていた先生がそう言ったときには、
僕はもうくたくたになってしまっていた。口の中が粘土になったようにねばつく。
開いたままにしていると、際限無くホコリがくっついてしまいそうだ。

100 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:25:11 ID:MEKC0iVA0
(´・ω・`)「この質問に、どんな意味があるんです……」

川 ゚ -゚)「わたしはきみほどの理解者がいるとは思っていなかった。しかも聡明で、話が早い。
     なに、よくあることだよ。同時代に生きる人間が、通じ合ってもいないのに同調し、
     共感するのは社会に生きている限り当然のことといえる。

     もしかしたら、きみ以外にも賢明な者はいるのかもしれない。いや、きっといるだろうね。
     こんなにも近しい距離に、きみがいたんだから。
     可能性は常々考えてはきたけれど、こうやって実際にコンタクトを取ったのは初めてだ。

     今までにも幾人か、わたしの研究に興味を持った者がいたよ。
     でも、そうやって近づいてくる彼らには大抵思慮を欠いている。

     実際、自らの思想論理で革命を起こそうなどとそそのかして、
     どうこうできるような勇敢さは無いんだ。

     世の中へ反旗を翻すのに周りの顔色をうかがってみたりする。
     民主主義の矛盾だね、今の時代は特にその傾向が強い……。

     質問には無駄なことも少し含まれていたかもしれないけれど、それは許して欲しい。
     すべてが無駄というわけではないんだ、むしろとても有意義なものといえるんだよ。
     きみの回答は、全てピーマンに基づいている。

     別に、きみ自身がピーマンだと言っているわけじゃないんだよ。
     社会がピーマンで塗りつぶされている以上、
     そこに生きる者の思想や主義主張がピーマン的であることは運命だからね。

     すまないけど、水をくれないか……」

101 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:27:21 ID:MEKC0iVA0
僕は、食器棚から曇ったガラスコップを取り、冷蔵庫のミネラルウォーターを注いで先生に渡した。
先生はそれを一気に飲み干し、再び話し始める。

川 ゚ -゚)「まずきみに必要なのは、今語ったようなパーソナルデータを放棄することだ。

     つまり不在証明……ただ遁走するだけじゃなく、社会からの完全な乖離を企てなくちゃならない。
     これは、スイッチを押すためには必要不可欠な要素だ」
 
その後先生はスイッチの仕組みを説明をしてくれたが、この部分に関してはよく覚えていない。
何せ理論が難解だったし、その時の僕が手段よりも、あくまで目的ばかりに気をかけていたからだろう。

102 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:30:41 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「……そして、わたしはこのスイッチをきみに押してもらいたいと思っている。
     もしもきみが少しでもピーマン要素を持っていれば、
     スイッチを押すと同時にきみ自身も消失する。それこそ、完全なる瓦解だ。

     残骸は転がるだろうが、それはもはやきみではない何かとなる。
     無論その場合は、きみがピーマンだったということになるし、
     そうすれば自意識そのものが崩れるから問題ないだろうがね。

     パーソナルデータの破棄はそれを防ぐためにも必要なことで、
     どちらかというと、きみにとってメリットになることなんだ。
     ピーマン要素を少しでも抜き取って、純粋培養しておいたほうがよっぽど安全なんだよ。

     いや、わかっている。確かに記憶というのは受動的なものでね、
     自ら進んで抹殺しようとしてできるものじゃない。
     聴覚と一緒だよ、いくら耳をふさいでも、かすかに音は流れ込んでくる。

     不愉快な音に、能動でないという弁解しつつ耳を澄ませることさえしてしまう……。
     むろん、わたしは解決策を用意している。こちらに来てくれないか……」
 
先生はそう言うと立ち上がって、本棚の隣にあった鉄扉を、
これも三つの鍵を順番に解いて、その向こうへ僕を案内した。
 
そこで僕は、あの、最も理解から遠い機械と対面することになったのである。

※ ※ ※

103 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:33:33 ID:MEKC0iVA0
その機械はさながら歯医者の治療椅子に似ていた。
肘掛けから、笠をかぶった電灯のついたアームが頭上に向かって伸びている。
そばにはキャスター付きのアルミ台が置かれており、その上に小型の電子機械がいくつか並んでいた。

奥には砂嵐を流している複数のディスプレイ。
壁一面に張り巡らされたパイプと直方体のサーバーシステムのような黒い箱。
 
先生に促され、僕は椅子に座った。
見た目よりも表面は柔らかく、身体が想像以上に沈み込む。

川 ゚ -゚)「きみは、よく夢を見る方かね」

(´・ω・`)「いいえ、それほどは……」

川 ゚ -゚)「人間が夢を見る理由にはいくつかの説が挙げられていてね……
     その一つに、記憶処理というものがある。
     ヒトの脳は睡眠時に記憶の整理を行っており、その副作用として夢を見るというものさ」
 
先生がリモコンを操作すると、背もたれが倒れて椅子は平行のベッドに変化した。
僕はなすがままに仰向けに横たわる。
視線の先に電灯、その向こうには天井裏を通るパイプの束が剥き出しになっている。

104 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:36:10 ID:MEKC0iVA0
(´・ω・`)「僕はこれから、実験台にされるのですか」

当然ながら、若干の怯えがあった。

川 ゚ -゚)「実験台というのは、少しニュアンスが違うかもしれないな。
     確認の段階はすでに済ませてある、いわば実質運用を始めるんだよ。
     きみに何らかの危害を加えるものじゃない……。

     ただ、ほんの少し眠ってもらえればそれでいいんだよ」

(´・ω・`)「夢を見せる……ということですか?」

川 ゚ -゚)「そうなるな……といっても、そうすぐには眠れないだろうね、睡眠薬は必要だろうか?」

アモバルビタールをもらって服み、治療椅子の上で目を閉じた。
目先の電灯が光を照射し、目蓋を介して視界にサイケデリックな模様を作り出す。
じっと眺めていると、それはやがて遠い郷愁の景色に変わる。

緑色の窓辺、鉄格子……シンメトリーの心象風景。
それらはぐるり、ぐるりと捻転を繰り返し、そのうちにピーマンの形を作り出した。

105 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:39:13 ID:MEKC0iVA0
僕は慌てて目を覚まそうとしたが、しかしすでにその時、僕は眠りに落ちていたのだった。
身体は弛緩し、動かそうとする信号と力は全て異次元の方へ掃き出されてしまっていた。
背中の感覚がなくなり、僕は重力を放棄した。

頭の中心部をレードルでかき回されているような倒錯をふと覚えた。
もしかしたら、実際にかき回されていたのかもしれない。
金属と金属を優しげに触れ合わせる、あの不快な音楽が頭蓋をいっぱいに満たした。

叫び喚こうとしても、当然口は開かない。
心地よい浮遊感と金属音による蟻走感の狭間で、僕はひどく不気味な気持ちに晒された。
 
だが、それぐらいのことは辛抱しなければならない。
ピーマンからの乖離、引いてはこの世界からの脱出を試みているわけなのだから。

手続きにそれなりの苦痛が伴うのは、試みそのものに説得力を持たせるためにも必要なことだろう。
それに、先生は危害を加えないと言っていた。それを信じるしかあるまい。
 
そろそろ睡眠薬が効いてきたのか、浮遊感と蟻走感が真ん中で渦を巻き始めた。
ぷかぷかと空白の泡が湧く。視界いっぱいに広がっていた巨大なサイケデリック・ピーマンは、
単細胞生物のような動きで形を崩し、奥まった部分へと小さくなって消えた。
 
記憶している限り、僕の意識はここでぷつりと途切れる。
それから起き上がるまで、一度の夢も見ることは無かった。

※ ※ ※

106 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:42:24 ID:MEKC0iVA0
僕は治療椅子のある部屋のドアを開けた。
上から見て分かっていたことだが、やはりこの部屋にも変わりなく、
治療椅子とそれにまつわる電子機器が置かれている。壊れてしまったものはなにもない。
 
今や、この部屋は全く必要のない空間になってしまった。

治療椅子は、要するにピーマン的記憶を選り分けて除去するための機械だったのであり、
それはスイッチを押す者だけが座ればよかったのである。
ピーマンを壊した今の世界に、治療椅子を必要とする人間は存在し得ない。
 
いずれ、このまま研究所にとどまるつもりはない。
だがその判断を下すには、今しばらくの猶予を持たせてもいいだろう。
今や僕は時間にさえ追いかけられることがないのだから。

先ほど考えついた、羽根を作り出そうという発想……
一種奇妙な狂想にも思えるが、しかし、割合に名案だったかもしれない。

107 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:45:00 ID:MEKC0iVA0
その時、不意に僕は、証明を済ませていないことに気づいた。
つまり……僕が生き残ったことが、決してスイッチの機能不全のためではないという証明……。

さっきまでは僕しかいなかったために、証明は自己完結さえしてしまえばそれでよかった。
しかし今は状況が違う。僕の後ろに少女が控えているのである。

(´・ω・`)「ねえ、きみ……」

僕は振り返って少女を見る。

(´・ω・`)「少し、話したいことがあるんだ……聞いてくれるかな」
 
しかし少女は何も答えない。それどころか首を縦にも横にも振ることさえしないのだ。
ただじっと、暗い眼をして僕を見つめ続けるばかりである。

彼女は本来的にこうなのか、それとも僕に敵意を抱いているのか……
いや、それはあまりに考えすぎというものだろう。
僕と少女にはこれまで、一欠片ほどの接点も無かったのだから。

108 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:48:25 ID:MEKC0iVA0
しかし、このままでは意思の疎通を図れないのだ。どうしたものだろう。
こういった際の証明の手続きについて僕はあまり詳しくないが、相手は子どもだ、
それほど小難しい手順を踏む必要は無いだろう。

ただ彼女が、彼女自身をピーマンに冒されていないということを認識してくれればそれでいいはずだ。
だが、現状ではそれすらままならない。
 
そういえば、僕は目の前の治療椅子について一度、逆転の発想を持ったことがある。
すなわち、全人類を治療椅子に座らせてはどうかというものだ。
そうすれば、世界がピーマン無しに順行することになる。

わざわざ壊しにかかるよりはいくらか、人権団体の糾弾を受けずにすむだろう……
いや、それはさすがに冗談だが、それほど悪い提案では無かったように思う。
 
しかし先生は否定した。

川 ゚ -゚)「座りたくないと拒絶する人がたぶん、世界人口の半数以上を占めることになる。
     そうでもなければ、今日のピーマン氾濫は起きなかったはずなのだから。
     そこでまた、一悶着起こすのは何より面倒だよ」
 
だが、理由がそれだけでないことは、今やはっきりしている。

109 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:51:01 ID:MEKC0iVA0
金属の衝突音が響いて、僕は我に返った。
見ると、少女が壁にぴったりと据え付けていたサーバーシステムを無理に動かし、突き倒していた。

(´・ω・`)「何をしている」
 
僕は思わず声を荒げたが、さほど怒る気持ちにはなれなかった。
ここにある機械は既にして無用の長物であるし、
それに彼女が能動的に行動を起こしたことが、少し嬉しくもあったからだ。
 
少女はサーバーシステムを倒し、動かす。まるでごく普通の児戯のように、
先ほどまでとは打って変わった活発さが弾けている。

少女の力でどうにかなるということは、それほど重量を持たないものなのだろうか。
大きさから考えて、あの中は空箱だったのかもしれない。

僕は今まで、この部屋に関しては下手にものを触るということをしなかった。
先生にいわれて時々研究所の掃除などをしたものだったが、
その時も、機器類に触れたりしないよう、厳重に教えられていたからだ。
 
その時、少女が消えた。
 
倒壊した金属箱の中でふっと消失したのだ。
僕は駆け寄り、そして、そこにぽっかりと開いた深い穴と、
降りていくための錆びた梯子を発見したのである。

※ ※ ※

111 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:54:11 ID:MEKC0iVA0
目覚めは割合に快適だった。背中の下が治療椅子だということを忘れかけるほどだった。
上体を起こし、頭を振ってみる。霞がかっているふうでもない。視界同様、十分に明瞭だった。

隣には先生が立っていた。先生は一言、「成功した」と言った。

(´・ω・`)「なんだか、思い出せないことがあるようには思えないんですけど……」

川 ゚ -゚)「それは当たり前だよ。記憶は直接意識に作用するからね。
     記憶の改竄を自らが実質的に理解してしまったら、意識にも変調を来してしまう。
     ただ記憶を喪失するだけだったら、こんな大がかりな設備は必要ないだろうさ」
 
それから先生は、僕を三つ目の部屋……そこは寝室だった……に案内した。
寝室は三つの部屋の中で最も小さく、ベッドが一つと、小型の金庫、そして書棚が置いてあるだけだった。

以降、その部屋に立ち入るのは、書棚の本を借りる時ぐらいのものだった。

112 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 21:57:25 ID:MEKC0iVA0
研究過程で僕ができることは、まったくと言っていいほどに無かった。

こなしたことと言えば、何の能力もいらない雑務や家事全般……
要するに、その辺の小間使いと何ら変わるところがなかったのだ。
最初の日に、治療椅子に座ったこと以外、協力らしい協力をすることもなかった。
 
先生は、それさえもしなくて構わないと再三僕に言った。

川 ゚ -゚)「研究者は被験者を最大限尊重しなくちゃならないんだ。
     特にきみには、本来なら絶対にしてはいけないような、人権侵害を行っているわけだからね」
 
それでは、こちらの気が済まない。
僕自身、被験者という役割のみよりも、被験者兼、実質的な協力者……
あわよくば助手というような地位でいたいという、個人的な都合もあったのだ。

とはいえ、素人が研究者の領域に無闇に立ち入ってはならないことぐらいは重々承知している。

だから僕は少ない知識を出来る限り動員して、料理を作り、決められた範囲内
(先生から、触れること自体を拒否された場所もあった。例えば、治療椅子の部屋の奥に置いてある、
 サーバーシステムなどである)の掃除をしたりして、日々雑用に努めたのだった。

113 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:00:08 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「きみには案外、子どもじみた部分があるね」

ドアを磨いていた僕に、ある日先生が言った。

川 ゚ -゚)「そうやって熱心にしているところを見ると、
     まるで母親に認められようと必死になっている幼児を思わせるよ。

     いや、別に非難をしているわけじゃないんだ。
     ただ、なんというか……そう、ともかく、ちょっと面白かった」
 
その時期が、僕の人生においての絶頂期であったことは言うまでもない。

といって、何かを成し遂げたとか、成功をおさめたというわけではなく……
むろん、それだってピーマン社会の固定概念に過ぎないとも思うわけだが……
ただ、日常そのものに幸福が詰まっていた。紛れもない充足と、解放感がそこにはあったのだ。
 
傍目から見ていてはよくわからなかったが、どうやら研究は順調に進んでいるらしかった。
日を追うごとに先生の眼は輝きを増し、研究の内容や自らの主張を語る饒舌は勢いづいていった。
僕にはそれが、嬉しくてたまらなかった。

114 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:03:04 ID:MEKC0iVA0
川 ゚ -゚)「スイッチを押すのはきみなんだ」

先生は酔っているときに、よくそう言っていた。

川 ゚ -゚)「まったく、助かったよ。感謝してもしきれない。
     こんなに近くに同じ考えを持つ人物がいるとは思わなかった。

     いや、もしかしたら、意外と多くいるのかもしれないな……
     そうなれば、これは壮大な革命ということになるよ」
 
僕はその役目を、もちろん喜んでいた。
そして、それを果たしたときにようやく先生の片腕として認められるような気がしていたから、
精一杯の努力をつぎ込んだのである。
 
むろん、その後の顛末などは想像だにしていなかった。

※ ※ ※

115 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:06:25 ID:MEKC0iVA0
(一枚目)

ついにこの時がやってきた。長い長い研究の成果がようやく可視化するときがやってきたのだ。
わたしはこの瞬間がついに到来することを心から嬉しく思う。
今、まるで革命家のような心情であるというのも、満更大げさではないだろう。

同時に、スイッチを押すその瞬間に立ち会えないことが無念だ。
そして、そうであるがゆえに、わたしはきみに、告白をせねばならない。

どうかこの手紙を最後まで読んで欲しい。
できればスイッチを押す前に、わたしの遺志を一応確かめておいて欲しいのだ。
きみがわたしに抱いている買いかぶりが、ある程度晴らされることだろう。

その時にきみがどう思い、どう行動するかはきみ自身に一任する。
なお、この手紙は、読み終えたらすぐ、破棄してほしい。
 
まず、要約して私の頼みを記しておく。簡単なことだ。
わたしに代わってスイッチを押して欲しい……ただ、それだけのこと。
 
きみには実際、心から感謝をしているのだ。
きみがいなければ研究をここまで押し進めることは到底できなかっただろう。

あの夏の暑い日、わたしが路上で醜態を晒しながらきみと出会うというある種珍妙な遭遇がなければ、
内容が内容なだけに、独りで貫こうとしていたスイッチの開発作業は停滞を余儀なくされていた。
 
本当のところ、ずいぶんと前からこの作業を独りでこなすことにはだいぶ無理を感じていたのだ。
きみには話したことがあるかもしれない。一度ピーマンに捕らわれた有機物あるいは無機物を、
ピーマンから解放することは不可能だということ。これは誰にとっても例外ではない。

むろん、わたしにとってもだ。

116 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:09:05 ID:MEKC0iVA0
最初の時、きみはすでに気づいていたのかもしれない。
以降、それについてきみがわたしを問いただすことがなかったから実際のところは分からないが、
聡明なきみのことだからある程度は気づいていただろう。

他でもない、あのマトリョーシカのことだ。
きみがマトリョーシカに触れたとき、わたしは明確な拒絶を表明したように思う。

あれは、なんということはない、ただの嫉妬だったのだ。
他の誰にもわたしのマトリョーシカに触れられたくはないという、汚らしい嫉妬によっていた。
 
嫉妬の汚さをきみならよく理解しているだろう。あれこそピーマンの本質であるとわたしは考えている。
最も憎むべきであり、最も絆されてはならない悪意の鎖であった。

しかし、それにわたしはいとも容易く雁字搦めにされていた。
ピーマンを壊す研究をしているわたし自身が、そのピーマンの核心を持っている……
それに気づいたときの絶望感といったら無い。

畢竟わたしも、ピーマンに捕らわれて動けない俗物でしかなかったのだ。
 
しかし、ここできみは一つの疑問を思いつくだろう。わたしが創りだしたもう一つの発明……
記憶を操作し改竄するあの治療椅子……あれに座れば解決する。
わたしの脳内からマトリョーシカに関する一切の記憶と感情を抜き取ってしまえば、それでいい。

むろん、わたしだって一度は同じことを考えた。あの時に踏ん切りを付けて座っていれば、
今こうして手紙を遺すことなく、スイッチを自分の手で押すこともできただろう。
しかしそれができなかった。できなかったからわたしはこの手紙を書いている。

ここでわたしは、もう一つきみに告白をしなければならない。

※ ※ ※

117 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:12:18 ID:MEKC0iVA0
錆びと淀んだ空気のにおいをいっぱいに吸いこんで咳き込みながら、
僕は梯子を危なっかしく下りていく。奥へ行くほど暗くなり、ノイズのような環境音も消えていく。
自殺をしているような、奇妙な感覚に陥りそうになる。
 
何故あの少女がここより更に地下の空間を知っているのだろう。

……いや、考えるまでもない。答えは一つしかないのだ。
しかしその答えはあまりにも残酷すぎる……僕への敵意もはっきりした。
少女は確かに、僕を憎むか、あるいは同種類の感情を向けている。

思えば、出会ったときからある程度、可能性は考えておくべきだったのだ。
ただ、少しだけ弁解させてもらえるのならば、僕は少女が壊れないとは微塵とも考えていなかった。

それはそうだろう。ピーマンは双方向でなく、一方的であっても発芽する……
それは先生が言っていたことだし、現にマトリョーシカが全て壊れたことからも明らかだ。
 
では、どうして……。

※ ※ ※

118 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:16:32 ID:MEKC0iVA0
(二枚目)

わたしには、娘が一人いる。生きていれば、もう九歳になっている。
この言い方からも分かってもらえるとおり、わたしはもう、数年間、娘と顔を合わせていない……
どこでどうしているのかも分からない、だから、本来これは語らなくても良いことなのかもしれない。

しかし、一枚目の手紙の最後に書いた疑問を解決するためにも、
娘のことには触れておかなければならないのだ。
私事極まりない内容であることは詫びるが、もう少しだけ読み続けてほしい。
 
三年前、彼女が六歳のころまで、わたしはここで娘と同居していた。
生活形態は特別今と変わっていない。ただ、その頃の研究は今とはまったく、
正反対と言っても過言ではなかったことを、内容は伏せさせてもらうが、記しておく。

その生活を、娘がどう思っていたかはよく分からない。
しかし、彼女は綺麗な笑顔を絶やさなかった。彼女はひどく愛らしく、犯罪的な魅力があった。
子煩悩と言われようが、こればかりは事実である。
 
破綻はその時にやってきた。
片親が現れ、娘を引き取ったのである。わたしの保護者資格に疑問を持ったらしかった。
当然わたし自身、自分の生活が常識人とは悪い意味で懸け離れていることは十分自覚している。

問題点はそこではないのだ。

(以下数行、ボールペンで乱暴にかき消されている)

119 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:18:36 ID:MEKC0iVA0
ここにわたしは理由を記すつもりだった。そして実際に記したのだ……
しかし、これをあえて消すことにした。理由の一つは、私事を過剰に暴露することへの恥を含んだ抵抗感、
もう一つは、わたしの偏見によると思われる部分が大いにあるからである。

ただ、唯一いえることは、わたしが本当の意味で娘を手放したくなかったということだ。
それが直接、わたしが治療椅子に座らなかった理由にも結びつく。

わたしの紡いだ、きみも共感してくれた理論によれば、わたしは重罪を犯したことになる。
そのことに弁解するつもりはさらさらない。
だからわたしは、しかるべき罰則を甘んじて受け入れようと思う。

120 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:21:17 ID:MEKC0iVA0
(裏面)

スイッチを押せば、娘も壊れる。そのことを今更恐れるのだ。
だがわたしたちのすることは、決して破壊だけではない。
そこには救済も含まれているはずなのである……。

スイッチの機能は、想定通りの効果をもたらすという点では完璧だ。
しかし理論の部分では不完全なところがあるし、
たぶんこれはいつまでたっても解明できない謎のままだろう。

きみがもしもその気になって、スイッチの機構を完全解明しようと言うならば、それでも構わない。
むしろ、勝手ながら、わたしはきみの能力に期待している。

※ ※ ※

121 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:24:14 ID:MEKC0iVA0
梯子を降りきった先の空間は、ぼんやりと薄明るかった。
人工物独特の、無機質でくすんだ匂いがする。
 
そこは、暖色系の壁紙に彩られた、子供部屋のような場所だった。

左側に背の低い洋風のタンス、おもちゃ箱、ぬいぐるみの縦列。
右側には絵本の並ぶ組立式の本棚や、小さめのベッド……
勘弁して欲しいほどに熱情に溢れた光景が、そこにはあった。
 
振り返ると、そこにドアがあり、開いてみると上り階段が顔を出す。
どの辺りに繋がっているのだろう。いずれにせよ、この連絡口も上階で封じられているに違いない。
 
少女……つまりは先生の娘……は、部屋の中心に立ち、虚ろな感じで室内を眺望している。
僕は改めて彼女の姿を眺めてみた。どことなく先生に似ているような気がしないでもない。
しかし、先入観以上の共通点は見いだせそうになかった。

122 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:27:34 ID:MEKC0iVA0
彼女の目的は最初からこの部屋にあったのかもしれない。

それにしても、なんだって彼女はここに来ようと思ったのだろうか。
先生の手紙によれば、先生と少女がここで過ごしたのは、少女が極めて幼少だった時期のみである。
その場所へ立ち返ろうとするようなノスタルジアを、彼女は持っているのだろうか。
 
まったく……せっかくスイッチを押したというのに、
未だになぜこのような親子関係について頭を悩ませなければならないのだろう。いい加減に疲れる。
このような腐心が嫌になったから、僕はスイッチを押したのだというのに……。

あまつさえ、その関係の中に、僕自身が少なからず巻き込まれてしまっているのだ。
 
少女は、本棚の絵本を取り出し、その場に座って読み始めている。
熱心にと言うよりは、斜め読みのような読み方……暇で暇で仕方がないからそうしているという感じ。
まるで違う世界……未だにいくらかの常識が残っている世界……に生きているような振る舞いだった。
 
タンスの上に分厚いノートが置かれており、僕はそれを取り上げる。
表紙には何も書かれていない、小汚いノート。開いてみると、どうやら日記らしかった。

123 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:30:55 ID:MEKC0iVA0
書き手は先生に違いない。字体が手紙のそれとそっくりである。
相変わらず、細かい文字でびっしりと書き込まれている。
 
日記はこの研究所を立ち上げた時から始まっていた。
それから研究の過程や娘のことなどが淡々と書き綴られ、
最後のページまで蟻の大群のような文字で埋め尽くされている。
 
詳しく読もうと思ったが、やめておく。これ以上、先生の生活感やピーマンなどを知りたくはなかった。
できれば、焼き捨ててしまいたいような衝動にさえ駆られた。
 
ノートを放り、辺りを見渡す。
そして、最後の調査対象……この部屋に侵入したときから気づいていた……
部屋の奥にある扉と、僕は対峙する。
 
恐怖と不安と怒りのような感情が一斉にこみ上げてきた。
僕は地下二階の事実を今まで知らなかったし、知らされなかった。

先生の最後の手紙にも書かれていなかった。
たぶん、永遠に隠蔽し続けるつもりだったのだ。こんな気分は初めてである。
 
最後の扉だ、と僕は思った。別にその先に何があったってかまわない。
そこを最後に僕は当初の思惑通り、羽根をつくる作業に入る。
この小さな、断片のような遊星から飛び出して宇宙を舞うのだ。
 
扉を開く。

※ ※ ※

124 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:33:07 ID:MEKC0iVA0
ある朝……何の変哲もない、単純な朝だった。先生との出会いから、一年と十数日が過ぎていた。
 
ロッキング・チェアで目覚めた僕は、製図用の机の上に、小さな置物を発見した。
銀色の台に円柱状の赤い突起物……それは、どこか安っぽい、しかしはっきりとスイッチの形をしていた。

スイッチは三枚の手紙を踏んでいた。それは、先生から僕に宛てた手紙……
それは結局、先生の不在証明となってしまった。

手紙には失踪の理由や娘の存在、スイッチを僕に譲渡する旨が細かい文字で記述されていた。
先生の、手書きの文字を見る機会は、そうそうあるものではなかった。
先生らしい、神経質で、饒舌な文体だった。
 
肝心の内容については、そう簡単に納得できるものではなかった。
そこに書かれている理由が、およそ失踪に足るとはどうしても思えなかったのだ。

先生は、あえて真相をそこに記していないような気さえした
(実際、一部の記述は黒く塗りつぶされているのだ)。

125 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:36:16 ID:MEKC0iVA0
あまりにも突然の雲隠れだった。
昨日までの先生に、そのような予兆はまったく見られなかったというのに。

唯一……スイッチを押す役目を僕に委ねた時点で気付くべきだったのかもしれないが、
無理がありすぎる。僕はその瞬間に、隣に先生がいると信じてやまなかったのだから。

先生がどこに行ってしまったのか、まるで見当がつかない。
手紙からは自殺やそれに近しい破滅ばかりが垣間見えたが、その時は、どうしても認めたくなかった。

大声を張り上げ、誰でもない相手を罵り、泣き叫ぶ寸前までは倒錯したように思う。
よくは覚えていない。はっきり思い出せるのは、手紙をびりびりに引き裂こうとして、
瀬戸際で踏みとどまったあたりからだ。

文面には読み終えたらすぐに破棄するよう指示されていたが、
どうにもそういう気にはなれず(そもそも、なぜ先生は破棄を指示したのか……)、
そのままポケットにねじ込んだ。
 
それから、待機の日々がしばらく続いた。
僕は、一方で無駄だと言うことを十分に悟りながら、先生を待った。
スイッチを机の上に置いたまま、あらゆる日常生活を先生がいるのと同様にこなし続けた。

126 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:39:22 ID:MEKC0iVA0
たぶん、そうしているうちに数週間、流れたように思う。
 
……言い訳がましいが、僕の先生に対する尊重は、決してピーマン的ではなかった。
帰還を待ち望んでいたことは事実だ。だがそれはむしろ……利害関係としての待望であり、
それを乗り越えることは無かったように思う。

その証拠に、数週間後、いよいよ先生が帰ってこないと分かって、
僕はスイッチを片手に繁華街に向かったのだ。
 
昼間の繁華街は相変わらず賑わっていた。ピーマンの姿、声、臭い。今ではもう、苦に思わない。
醜いものを許容する、慈母のような気持ちで周囲を眺め回し、歩いた。
歩きながら僕は、ほんの少しだけ先生のことを考えた。先生はもう、この世にいないだろうか。
 
しかし、機械の本質は機能である。僕は最初の目的を思い出した。
一年前、家を飛び出したその理由……ピーマン世界に辟易し、逃走を図った真夏の夜。
その頃から、ずっと焦がれ続けていた解決の方法が、今自分の右手にある。
 
それだけで十分だった。過剰に先生のことを思う必要もない。
僕は僕の手でピーマン世界に終止符を打つのだ。
先生の手紙には、僕への忠告も含まれていたが……知ったことではない。

少なくとも、スイッチを押すまでは、僕は僕としてすら存在していないのだ。

127 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:42:32 ID:MEKC0iVA0
雑踏の中で僕は立ち止まる。雑踏。ピーマン。これで見納めになると思うと少々名残惜しい。

その一瞬、わずかな躊躇いが生まれた。
僕は先生に対して如何なる気持ちを抱いていたか……解決はしない、しようもない。
考えるだけ無意味だ。それでも考え続けてしまうならば、思考ごと切り離すよりほか無い。

僕は、ポケットの中でゆっくりとスイッチを押した。割合に、硬い感触がした。
 
……そうして、僕はこの世界にとどまった。
ピーマンは壊れた。僕は壊れていない。先生は、もうどこにもいないだろう。

※ ※ ※

128 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:45:29 ID:MEKC0iVA0
(三枚目)

いよいよ三枚目に突入してしまった。これで最後にするつもりだ。
遺書というものは、そうくだくだしく書くものではないだろう。もう少しだけ読み進めて欲しい。
きみに謝罪せねばならないことを、わたしは数え切れないほどに持ち合わせているのだ。
 
ここまでを読み下してもらって、わたしが姿を消した理由はおおよそ察してもらえたと思う。
結局わたしは、研究者としても人間としても、あるいは革命家としても中途半端だった。

実践的に役立たない機械は、いくら高度でも評価されない。
せいぜい文化的価値を認められて、後世の人間に見定められるだけなのだ。
 
すでにスイッチは完成している。
あとはただ、この世のどこかでそれを押せば、想定通りの結果が出せるはずだ。
この世からピーマンが壊れてなくなる……まことに喜ばしい結論が、おのずと顔を出してくれる。
 
だが……少しだけ、待って欲しい。きみには再考する余地がある。
これはあくまでも推奨に過ぎないのだが、治療椅子の部屋にあるコンピューター……
そのハードディスクに、電子化されたきみの友愛的記憶……パーソナルデータが格納されている。

同じコンピューターにマニュアルも添付されているので、
その通りに動かせば、もう一度きみの頭にその記憶を還元することができる。

129 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:48:04 ID:MEKC0iVA0
今更何を、と思うかもしれない。そもそも、わたしの行動はすべてが遅すぎた。
本来ならばもっと早くに死んでおくべきだったのだ。
そうすれば、きみを無闇にわずらわせることもなかった。
 
人間が死を怖れるのは、決して死そのものを怖れているわけではないと思う。
死ぬことによって共同体である時間から取り残されること、
社会的関係から断ち切られることを、わたしたちは最も怖れるのであろう。

考えて欲しい。スイッチはおそらく、ほとんどすべての人間……
いや、人間に限らず、動植物、有機物無機物関係なく、何もかもを区別せずに壊すだろう。
そして、ついにはきみだけが残る。
 
これは自殺とほとんど同義ではないだろうか。
 
……わたしは、自分自身の研究すべてを否定するつもりはない。
むしろ誇りを持っているし、それはどんな虐殺兵器の開発者だってそうだろう。

スイッチや治療椅子のアイデアは娘が生まれる以前からあったものだし、
彼女の誕生で目的がぶれたつもりもない。

ただ、わたしの中では彼女への思いよりも、
今生への憎しみが遙かに上回っていた……それだけのことだ。

130 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:51:03 ID:MEKC0iVA0
笑ってくれて構わない。
わたしの精神は、鬱憤ばらしに我が子を虐待する世間の若者と何ら変わるところがないのだ。
皮肉なものだ。憎しみが上回っているとはいえ、思うことが消えるわけではないのだから……。

先ほど、きみの能力に期待すると書いた。その言葉をもう一度繰り返させて欲しい。
きみには、もしかしたらスイッチを押す能力があるかもしれない。
 
重ねて謝罪する。何もわからないきみを治療椅子に座らせ、記憶改竄をしたという行為……
考えれば考えるほど、下卑た行為をしたこと、きみをこの地下室に拘束して研究につきあわせたこと、
そして、自らが逃げる一方で、勝手にきみに期待すること、その全てを、わたしはここに謝罪する。

131 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:54:00 ID:MEKC0iVA0
(裏面)

寝室に金庫がある。そこに、今までわたしが貯蓄してきたわずかばかりの金が入っている。
右回りに5、左回りに7、右回りに8、左回りに0で解錠する。せめてもの慰謝料だ。
気兼ねはいらないので、受け取って欲しい。
 
もう一つ追記しよう。マトリョーシカのことだ。
一枚目にも書いたが、わたしはマトリョーシカに、ただならない感情を持っていた。

なぜマトリョーシカなのかは今もってわからない。
その魅力を語ることはたやすいが、恐らくそれらはマトリョーシカを好んで以降の、
後付けの理由のような気がしてならないのだ。
 
推測に過ぎないが、恐らくわたしにとって、あれらは娘の代替物だったのだろう。
鳥類の刷り込みのようなものなのかもしれない。
娘を失って、次にふと目に付いたのがマトリョーシカだった、ただそれだけのことなのだ。
 
思うに、わたしのマトリョーシカに対する態度で、きみはわたしの狂態に気づいていたのかもしれない。
それを指摘しなかったきみの優しさに、わたしは感謝せねばならないだろう。

(以下、いくらかの空白の後、走り書きで)

研究過程にきみがいたことに、わたしは多大なる感謝を惜しまない。本当にありがとう。すまなかった。

※ ※ ※

132 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 22:57:03 ID:MEKC0iVA0
正方形の、広い部屋があった。目の前に自分がいる。その自分はひどくみすぼらしい格好をしていた。
落ちくぼんだ目が僕を見ている。

不意にその自分がこちらに手を伸ばしてきたような気がしたが、錯覚だった。
しばらく、つくづくと眺めてみて、ようやくそれが鏡に映った自分であることに気づいた。
 
後ろでドアが独りでに、音も立てずに閉まった。ドアの裏側にも鏡がはりつけてある。
よく見れば、四方の壁面だけではなく、天井も、床も、すべてが鏡でできていた。
 
急に不安になって、僕はその場に立ち尽くした。合わせ鏡の効果で、無数の僕が僕を取り囲んでいる。
どの姿も等しくみずぼらしく、どの目も等しく落ちくぼんでいる。
 
まるで世界の縮図だ、と僕は思った。
スイッチを押した後の世界……壊れたピーマンの代わりに、僕だけが存在する小さな天体……。
他には何もない。鏡は僕しか映し出さない。
 
不思議だった。なぜ地下二階が残されているのだろう。
ここが先生と少女の空間ならば、当然壊れてしかるべきだ。
 
いや、それどころじゃない。少女はなぜ存在しているのだろう。
先生に溺愛されて育ったはずの少女が僕と同じ世界に立っている。
 
ここはどこだ?

133 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 23:00:18 ID:MEKC0iVA0
決まっている……鏡の部屋だ。いや、そんな小さな意味ではなく……。
まるで違う世界にいるはずの彼女は……そもそも存在しているのか。僕の方こそ存在しているのか?

思い出されるどこかの理論……くだらない猫の生死の理屈……。
 
ただ、今この場所には、猫を隠すような黒い箱はない。
箱は完全に透明で……ないしは、箱自体がどこにもなく、猫は丸見えになっている。

それでも僕は、その猫が生きているのか死んでいるのかわからない。
たぶん、視神経がやられてしまっているのだ。
 
一つの懸念が思い浮かぶ。
それは遙か昔……先生と関わって間もない頃に湧いて出た、発想以前の妄想。

スイッチがピーマンを壊すことはすでに聞かされていた。
それを逆手に取る……つまり、壊れるのは自分……ピーマンで無い側ではないか、と。

大多数にとっては、自分以外の誰か一人が壊れるのと、
誰か一人をのぞく全員が壊れるのとで、さしたる違いはないだろう。
要は一人が集団から取り除かれるということなのだ。

134 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 23:03:03 ID:MEKC0iVA0
何の根拠もない、杞憂にも満たない愚考だった。
あまりにも下らなくて下らなくて……先生にも言わずじまいだったほどだ。

大体、違いがないのは取り除かれる一人にとっても同じなのだ。
畢竟、乖離される……望んでそうするわけだから、何も問題はない。

しかも、自殺するほどに神経を使わなくてもいい。
引き金よりも軽い、スイッチを押せばそれですむ……
僕の愚考に端を発した悩みは、同等の結論で解消されたのだった。
 
今改めてそのことを思い返す。そういえば、先生の手紙にも同じようなことが記されてあった。
あの時、僕の中での前提は、あくまでも取り除かれるのは一人きりということだった。

しかし、現実は常に空論を覆す。今、最低でも二人が取り除かれているのだ。
僕とともに、少女が、唖の少女……先生の娘が。
 
その場合、どうなるだろう……分からない。僕の頭は柔軟に回ってくれない。
先生なら分かるだろうか……いや、分かっていれば、そもそも少女はここに存在していないはずだ……。

鏡の中の無数の自分が徐々に小さくなっていくのを感じる。いずれ、そのまま消えてしまいそうだ。
 
消失物が更に消失するとどこに行くのだろう。少なくとも、同じ世界には残るまい。
 
ただひたすらに、恐ろしい。

※ ※ ※

135 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 23:06:01 ID:MEKC0iVA0
僕が最初に、はっきりとピーマンの存在を意識したのは、確か小学校に入ってすぐの頃だったと思う。
夜中に尿意を覚えて起きた僕は、トイレに行く途中、リビングがまだ明るいことに気づき、
ドアの陰からそっと中をのぞき込んだのだ。
 
ソファの上に、互いの躰を擦り合わせ、不快な摩擦音をたてる両親がいた。
彼らはまさしくピーマンの塊だった。

当然その頃はピーマンをピーマンとして認識していたわけではなかったが、
それでもある種植物的な、奇怪なざわつきは感じていたように思う。
醜く不愉快で、しかもひどく常識的なピーマンが二個、鳴いていた。

そのとき僕がとった行動は、今ではあまりよく覚えていない。
腰を抜かしただろうか、彼らに見つかっただろうか、無事の帰還を果たしただろうか。
いずれにせよ、以降その記憶を他者によって引きずり出される機会が無かったのは確かだ。

その数ヶ月後に妹が生まれたが、彼女がピーマン化するのは平均から見てもずいぶんと早く、
中学三年生の時だった。腹の中に不発弾のような危なっかしい胎児を抱えた妹に、
種を蒔いた彼女より四つ年上の軽薄な男に、両親は烈火のごとく怒っていた。

無理もない、我が家は一応勤勉な、知性的家庭として世間に通っていたのだ。
道徳的な罵り合いをする彼らは、しかし、僕には同じピーマンとしてしか映らなかった。

136 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 23:09:14 ID:MEKC0iVA0
結局彼らはその後、ホームドラマのような物別れをし、
そして二年後、ホームドラマのような涙の再会を果たした。妹は結局別の男と結婚した。

生真面目な同年齢の青年であり、その時ようやく我が家の名誉は、
含み笑いできるほどには回復したのである。
僕が先生を師事するようになる、ほんの少し前の出来事だった。

今思えば、幼い頃の両親のピーマン的動作、
ないしは妹の存在が僕の行動原理になっていたのかもしれない。

だが、僕は彼らを、当時から大して恨むつもりにはなれなかった。
小賢しい僕は、彼らのすることがこの惑星において当然のことだと理解し、諦観していたからである。
家族だからという戸惑いもない。家族構成こそ、ピーマン発育の大系であると悟ったからでもあろう。

確かに僕は両親を、引いては親類のすべてをピーマン抜きにしても毛嫌いしていたが、
恨むべきはピーマンそのものであり、そこに私的な区別や差別を介入させる必要はない。
それは僕の信念であり、先生の信念でもあったのだ。

※ ※ ※

137 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 23:12:02 ID:MEKC0iVA0
鏡張りの部屋から出て、僕は読書中の少女に、スイッチを投げてよこした。
そして、不思議そうな表情をする彼女に言った。

(´・ω・`)「そのスイッチを押してくれないか」
 
これで、何もかもがはっきりするだろう。
 
もし何も分からなかったとしても、僕の存在、
もしくは不在が誰にも解明できないという結論が吐き出される。
それならそれでもかまわない。僕のことを理解するピーマンなど、自分自身でさえも必要ないのだ。

※ ※ ※

138 : ◆xh7i0CWaMo :2015/04/28(火) 23:15:02 ID:MEKC0iVA0
(地下二階の日記、最後数行を抜粋)

……鏡張りの部屋に立つ。合わせ鏡の効果で無数に現れたわたしを、つくづくと眺め続ける。
自分だけの世界、無数の自分がいる世界……。
 
ふと思う。スイッチの効果についての危惧だ。スイッチは周囲を壊す……
だが、少し視点を変えてみるとこうなる。無数の人間の共存する世界は、
しかし見る者によって何もかもが大きく変わる。

つまり、人間の数だけ世界がある。スイッチを押した者は……
あるいは、自分の世界のみを壊すのではないだろうか。

少ない接点を自分から破壊して、隔離される……
それこそがスイッチの効果だったとすればどうなるだろう。
 
……いや、案外何も変わらないかもしれない。
結局、スイッチの持ち主にとっての結果は一つのところに集約し、達成されるのだ。
他人の目には、一人の人間が消失したという、ただそれだけにしか映らない。

不具合は、どこにもない。
 
この日記とともに、地下二階を封印する。娘が戻ってくることはもう、ないだろう。
だが、わたしは自覚以上に下卑た女なのかもしれない。
一方でスイッチを開発しながら、他方で娘を愛し、そして娘の代替物をすでに求めている。
 
わたしはすでに、新しいものに焦がれ始めている……。

※ ※ ※









6.素直キュートとハインリッヒ高岡による退屈な会話